#15「ひとりの静寂」
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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カチカチ……タッタ……コトッ。
「終わった……んぐぐ……はあ」
放課後の生徒会室。西日に照らされた長机の上には、完璧に仕分けられた書類の山と、使い慣れたシャーペンやボールペンたちが不規則に並んでいる。葵は仕事を終えると、手と脚を思いっきり伸ばし、リラックスする。
「お疲れ様。また根詰めてたでしょ?」
声をかけてきたのは同じ生徒会の友人。彼女は手慣れた動作で、湯気の立つ白いカップを机に置く。ふわりと、華やかでいて落ち着くダージリンの香りが室内に広がった。
「……ありがと。ちょうど一区切りついたところ。悪いわね」
「いいのよ。はい、これ。頑張りすぎな葵への差し入れだよ」
葵は紅茶を手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。温かい液体が喉を通り、張り詰めていた神経が『ゆるやかに』解けていくのを感じた。
「……美味しい」
「でしょ? 悩み事があるなら、その紅茶と一緒に飲み込むといいわ」
「えへへ……。上手いこと言うね」
友人の軽やかな言葉に、葵は自嘲気味な笑みをこぼす。
自分の言葉で誰かの『居場所』を壊してしまったかもしれない。けれど、そんな自分にも、こうして紅茶を差し出してくれる誰かがいる。
「……そうね。今は、この苦味だけで十分」
再びカップに口をつけた。
「はあー。私もまだ書類の整理だの見回りだのあるんだから。めんどーめんどー」
友人は言い分を残す。扉の開けようとした直前、足を止めた友人が、ふと思い出したように振り返った。
「……そうだ葵。今日ね、君の友達が言ってたよ。結月ちゃんが。日菜に何か意地悪したんだって?」
その視線には、責めるような色は一切ない。ただ純粋な好奇心と、少しばかりの心配が混ざり合っている。葵は紅茶のカップを持ったまま、視線だけを友人に向けた。感情を綺麗に覆い隠した、いつもの『優等生』の仮面を被って、小さく息を吐く。
「私は当然のこと言っただけよ」
冷徹とさえ思えるほど、淡々とした声だった。自分の行動を正しくするためではない。ただ、そうするしかなかったのだという、不器用な彼女なりの境界線の引き方だった。
「……そう」
友人はそれ以上深く追及することなく、小さく頷いた。葵がそう言うときは、これ以上踏み込まれたくないときだと知っているからである。
けれど、友人はそのまま出て行く代わりに、引き戸に手をかけたまま、悪戯っぽく笑ってみせた。
「まあ、葵が正しいのはいつものことだけどさ。正論って、たまに風邪薬より苦いからね。もしあっちが泣きついて謝ってきたら、今度はその子にも紅茶の淹れ方、教えてあげなよ」
「……」
「つまりは、ちゃんと仲直りしなさいよってこと。結月、なんだか本気そうだったから」
「そうなの」
「ん、じゃあね」
ひらひら手を振って、今度こそ友人は部屋を出て行った。静かに引き戸が閉まり、生徒会室は再び静寂に包まれる。
「……当然のこと、ね」
葵は自嘲気味に呟き、手元に残った、すっかり冷めてしまった紅茶を見つめた。水面に映る自分の顔が、酷く冷徹で、ひび割れて見えた。
あの日の光景が鮮烈に蘇る。
放課後の階段の踊り場。夕日が差し込む窓際で、日菜と対面しあっていた。その瞳は、何も映していないかのように虚ろで、どこか遠くを見つめていた。美桜に依存し、自分の殻に閉じこもることでしか自分を保てない、歪な少女の姿。
「『いつまでそうやっているつもり?』」
自分の声が、記憶の中で鋭く響く。その途端、日菜の肩が、びくりと跳ね上がった。見開かれた瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。傷つけるつもりはなかった。けれど、そうでもしなければ、彼女たちの歪な関係は壊せないと確信していたから。だからこそ、鋭い言葉を選んで、彼女の心に突き刺したのだ。
「『……日菜は、ただ……』」
蚊の鳴くような声で、消え入りそうに呟いた日菜の、あの絶望に満ちた表情。
「……本当に、最悪ね。私」
葵はそっと目元を覆った。
正論という名のナイフで、日菜の心を滅多刺しにした。それが正しかったなんて、口が裂けても言えない。
けれど、あの冷たい言葉の裏にあったのは、確かな願いだった。
傷ついて、壊れて、それでもその先で、日菜が自分の足で立てるようになってほしいという、何とも不器用な祈り。
「風邪薬より苦い、か……」
友人の言葉を思い出し、葵は小さく息を吐き出す。
もし次に日菜と向き合うときが来たら。その時は、この冷え切った正論ではなく、ほんの少しの温かさを差し出せるだろうか。葵はカップを机に置くと、迫りくる夜を迎え入れるように、ゆっくりと瞳を閉じた。そして言った。
「でも、私があんな言い方をしなくても、結月ならなんとかしたわね。……あの子、意外に『熱いし強い』んだから」
ふっ、と笑みがこぼれる。
自分はいつもそうだ。効率や正論を優先して、一番大切なはずの『温度』を置き去りにしてしまう。
「……バカね。本当に」
葵は冷め始めた紅茶を一口飲み、喉を潤す。
この静かな生徒会室から、彼女たちが新しい『居場所』を築くのを、ただ静かに見守る。それだけで十分。だって、自分にはそこにいる資格なんかないのだから。
(さて。日菜が謝ってきたら……なんて返しましょうか)
窓の外を見れば、空は茜色から、夜を予感させる深い色へと移り変わろうとしていた。




