13-5
土曜日の朝。いつものように連泊しているホテルの大浴場で、僕は朝風呂を満喫しておりました。
ビジネスホテルって貧相なイメージだったのですが、こんなに立派な浴場があるなんて知りませんでしたよ。おまけに宿泊者は朝食ビュッフェが無料とは有難いではありませんか。安芸君の手料理には敵いませんけどねぇ。
僕としては本当なら、シティホテルで優雅な宿泊をしたかったのですよ。料金もトリプルルーム1室のほうがオトクですし。
でも残念ながら和泉市外にしかなく……。ここまでの交通費を加算すると、市内のビジネスでシングルを3部屋取っても大差ないので、甘んじてこちらを選んだ次第。
というわけで朝風呂から部屋の前へと戻ってきた僕は、両隣の部屋の扉を叩き、中の宿泊者を呼び出しました。寝ていても問題ありません、僕は彼らの部屋の合鍵も持っていますので。もちろん、万一に備えてですけども。
「なんらぁ、武蔵。今日の鍛錬は休みのはずだっけさ……」
寝ぼけ眼で扉を開いた越後君は、半ば僕を睨みつけながら大欠伸をしました。
彼は連日、日向君たちの鍛錬を見てくれているので、ゆっくりしてもらいたいのは山々なのですが。
「すみませんねぇ、越後君。今日は一緒に出かけたいところがありまして」
「あぁん? 何で休日にヤローと出かけなきゃなんねぇんだて。俺はパスさ」
「そう言わずに付き合ってくださいよ~。そろそろ君にも楽器演奏を覚えてもらわなきゃいけないですし」
それまで仏頂面を浮かべていた越後君でしたが、僕の〝楽器演奏〟という言葉を聞いた途端、顔色を真っ青に変えたのです。
えぇ、僕は知っています。彼がまだ明らかにしていない大きな秘密を。
「おまッ、何で……!?」
「僕が気づいていないとでも思いましたか? 君、あのトロンボーンを吹いたことないでしょう。ですので、まずは音楽鑑賞から始めましょうか」
僕の満面の笑みに隠された〝命令〟の二文字に、彼は頭を抱えると渋々と了解の言葉を口にしました。音楽鑑賞のデビューが和泉ちゃんたちの演奏会だなんて、僕からすれば羨ましい限りです。
会場は午後2時からですので、時間にはまだまだ余裕があります。だからゆっくりビュッフェも楽しめますし、演奏会に相応しい服装を彼らに準備することも可能です。
けど、まずはその前に。
「では、純君を起こしてきて下さい。応答がないので、まだヨダレを垂らして寝ているでしょうから」
「……お前よ、俺のこと便利屋か何かと勘違いしてねぇんだて?」
呆れ顔の越後君に反対隣の合鍵を手渡し、僕は「お願いします」とだけ告げて部屋に戻るのでした。
――最も、単に音楽鑑賞のみを目的として動く僕ではありませんけどね。
◇
定期演奏会の会場では、只今ゲネプロが行われている。今日のプログラム全てを簡単に通し、最終調整を行うリハーサルのようなものだ。
演奏会自体はもう何度も開いているけど、毎度本番が近づくとそれなりに周囲の空気は張り詰めていく。でもこの何とも言えない独特な雰囲気は、今年もこの時期が来たのだと体感させてくれるから、私は決して嫌いじゃない。
楽団の演奏会は初めてなはずのあの三人でさえ、そうだと感じさせない平然とした表情なのだから流石だ。しかもあの三人は、このところ毎日越後さんと地獄のような鍛錬を積んでいるらしく。
今朝はお休みだったみたいだけど……いくらクラシック療養が使えるからって、もはや体力オバケと言わざるを得ないと思うのですが。
「オッケー。ほな、通しはこれくらいにしとこか」
全体の調整をし終えた団長が皆にそう声をかけた。
正午から1時間ほどでゲネプロを終え、開演までは残り30分である。団員はこの間に、お昼休憩をとったり着替えをしたりしてコンディションを整えるのだ。
その前に私たち四人だけは、指揮台周辺の席に集まって居残りで調整を行い始めた。言わずもがな、これはルミナス・カルテットのゲネプロだ。
本番は安芸君の思惑どおり、きっちり20分ほどの演奏時間が与えられている。団長って本当に私たちのファンみたいね。
ゲネプロの段階で皆の演奏は絶好調だった。もう本番が待ちきれないくらい、私の期待も十分すぎるほど高まっている。
「ありがとうございます、僕たちもこれで大丈夫です」
「分かりました。では本番、楽しみにしています」
安芸君と舞台監督さんのやり取りを目にしながら、舞台袖へ出る私たち。早く楽屋へ戻って本番の準備をしないと!
ところが舞台裏へ回った先で、1人分の小さな拍手に引き止められてしまった。そこで待ち構えていたのは、鮮やかなブルーのワンピースに身を包んだロングヘアの美少女だった。まだ本番前でラフな格好をしている私たちより、まるで彼女のほうが演者のような出で立ちだ。
「流石の余裕ね、ルミナス・カルテットの皆さん」
「伊予ちゃんっ! おはよう、応援に来てくれたんだね」
「トーゼンよ。和泉たちの晴れ舞台だもの、私からも活を入れなくっちゃ」
入団したばかりの伊予ちゃんは、今回の参加は見送り。見学に来るとは聞いてたけど、わざわざ舞台裏まで顔を出してくれるなんて、いい子だなぁ。
……と私は思ったのだけど、三人はそうじゃないご様子で。
「あのな……。別にいらねぇし、お前は客席から見てろよ。チケット貰ってんだろ」
「いーじゃない。私だって楽団員なんだから、問題ないでしょ」
日向君にツッコまれ、彼を軽く睨みつける彼女。やっぱり彼らはまだ伊予ちゃんを歓迎するつもりはないらしく、再び胸の奥が僅かに締まる。
「そうだ。武蔵さんも来てくれるって言ってたから、挨拶しておきなよ。伊予」
安芸君が提案した瞬間、伊予ちゃんの細い眉の間に深い皺が寄った。
「え……、副長? イ・ヤ・よ、私まだアノ人には会いたくないわ」
「何だよ、強気なお前もやっぱり武蔵は怖いってか?」
今度は近江君にからかわれて、彼女はプイとそっぽを向いた。これは図星ってこと?
武蔵さん、前世はそんなに怖かったのかな……。
「それより皆、早く楽屋に戻ろう。もう時間がないよ」
腕時計へ目をやった安芸君に促され、私は恨めしそうな表情の伊予ちゃんに「ごめんね」と言い残して、三人と共に舞台裏を後にした。




