◇番外◇ legatissimo ~日向と安芸、近江 古の友情 Ⅰ.Allegro
「ふーん、読書か。以前の君は、そんな勤勉キャラだったかな? ……高杉日向クン」
コンクール本番を終え、会場のロビーで本を読んでいた俺は、自分へかけられたその声に視線を上げた。
そこにいたのは、顎のラインにそって緩やかにカットされたショートボブの……男、だよな? にしちゃ顔が妙に女々しい。ネクタイにパンツスタイルの制服姿だが、服装じゃ容易に判別できねぇ。
だが俺は、コイツが間違いなく男であることを知っている。〝俺自身〟は初めて会う男だが、〝俺の記憶〟の上では百年と数十年ぶりになる相手だ。
よって、ここで奴に返すべき言葉は「初めまして」などではなく。
「……久しぶりだな、安芸」
そう呟いた俺に、アイツは満足そうに不敵の笑みを浮かべた。
高校に上がってから半年くらいが経過した。今日はここ福岡のあるホールで、音楽コンクールの九州地区大会が行われている。宮崎大会のチェロ部門を難なく優勝した俺がこの地区大会へ出場しており、安芸はわざわざ広島から視察に来ていた。
俺と安芸は中学ん時から〝奏者〟を頼りにお互いの所在を探し始め、高校入学後にようやくコンタクトを取ることに成功していた。以降、SNSやメールで何度か連絡を取り合っている。
俺は暫くそれで満足だったが、この大会に俺が出ると聞きつけた安芸が「見に行く」と言い始め、ついに顔を合わせることになっちまった。確かに突然「宮崎に行く」と言うのは不自然だが、音楽家として「他人の演奏を見たい」と言えば、周囲の人間を説得しやすかったのだろう。
そりゃ、いずれは会わなきゃなんねぇだろうが……正直、俺はまだ安芸と会うことに乗り気ではなかった。
何せ一応、初対面だ。SNSでの会話はあっても、あれはあくまで〝文字のやりとり〟であり、実際に会って話すのとはワケが違う。いくら前世で知り合いだからって、今の俺らが簡単に打ち解けられるもんなのか? ……別に会いたくねぇってワケじゃねぇけど。
そんな不安を抱えながら今日を迎えたわけだが、とりあえず俺たちは会場から外の広場へ移動することにしていた。話すにしても、人目のあるところで「ブリッランテが」なんて会話は御法度だ。
適当にベンチを見つけて座るや否や、どんな顔すりゃいいのかも悩む俺とは対照的に、安芸はサラサラの髪を風に靡かせて涼しい顔で話し始めた。
「だから目印なんか要らないって言ったろう? 君の顔は嫌になるほど、記憶に焼き付いてるんだからさ」
「……そうかよ」
ラフな口調の安芸と違い、ぎこちない返しをする俺。いやいや、コイツ何でそんな距離感で話せるんだよ。前はこんなグイグイ来るタイプじゃなかったと思うんだが。
前世と俺たちは別人格だから性格が変わるのはあり得ることだが、この記憶とのギャップもイマイチ一歩踏み込めない要因なのかもしれない。――っつか〝嫌になるほど〟は余計だろ。
「君の演奏、聞かせてもらったよ。宮崎の大会で優勝しただけあって、流石の腕前だったね」
「へーへー。……そりゃどーも」
先程から軽率な返答しかしない俺に、流石の安芸も表情を曇らせた。
「何だよツレないな、今更そんな他人行儀にする必要ある? 折角会えたっていうのに」
俺の顔を覗き込むように、安芸の少し明るめの赤茶色の瞳に捉えられ、反射的に視線を逸らせてしまった。
マズい、これじゃコイツに照れてるみてぇじゃねぇか。男にしては可愛い顔してやがるから、余計に変な気分だ。
俺の様子に安芸は小さく溜息を吐くと、一度身を引いて俺が持っていたチェロのケースへ視線を落とし、「そういえば」と切り出した。
「今日は君の楽器、白くなかったね」
「……はぁ?」
突然何を言い出すかと思えば。白くないも何も、俺は白いチェロなんて使ったことねぇし、そんな珍しいもん持ってもない。何の話してんだよ、コイツ。
「もしかして忘れちゃった? 日向、前世で一度松脂を塗りすぎて、楽器を真っ白にしたことあったよね」
「……あ。」
瞬間、記憶回復によって復活した古い記憶の中から、思い出したくもなかった出来事が鮮明に蘇った。ブリッランテを結成して初めての合同演奏会のこと。俺は弓に塗る松脂の量を誤り、弦を弾いた摩擦で楽器が白くなるほど粉を吹かせるハプニングを起こしていた。
当然これは〝俺〟の話ではなく〝前世の俺〟の話である。それなのに思い出した瞬間、羞恥心が込み上げて体中の熱が一気に顔面へと集まった。
「バッ……! あれは、お前が〝もっと塗ったら?〟とか言ったからだろ!?」
「クラリネットの僕がそんなこと言うわけないだろ。君が勝手に塗ったんだよ」
「ウソこけ! お前、終わった後に腹抱えて笑ってやがっただろうが!」
涼しい顔で無罪を主張する安芸に、俺は全力で噛みついた。確か前世でもこうして口論になり、取っ組み合いまでしたっけな。
そこまで回想して我に返った時、悪戯が成功したガキのように満足げに笑う安芸が目に入った。そう、コイツはあの時も散々喧嘩した後、こんな表情を浮かべていた。それで拍子抜けして、俺は安芸と連むようになった。これがコイツとの最初の記憶だ。
「良かった。やっと昔みたいに絡んでくれたね」
「ッ――――」
完全にハメられた。もう少し距離を置こうと思っていたのに、まんまとコイツのペースに飲まれてんじゃねぇか。
でも何故か悪い気がしない。寧ろ失っていた時間を取り戻したようで、清々しい気分すらした。
「っせーな。つか大事なコンクールで、俺がンな初歩的なミスするかよ」
「ハイハイ、それはどーも失礼いたしました」
まるで心が籠もっていない淡白な謝罪の言葉と共に安芸が軽く頭を下げた直後、広場の外から安芸を呼ぶ声が聞こえて奴はその方向へと振り返った。俺もチラリと視線をやれば、女の人が「そろそろ帰るよ~」と手を振っている。
「はぁーい、すぐ行く! 先に車で待ってて!」
そう言って安芸が大声で応答すると、女の人は了解の意を込めて右手を大きく上げ、駐車場の方へと向かっていった。
「……母親か?」
「うん、流石に僕一人じゃね。……さて。もう行かなきゃだけど、その前に。日向はこれからどうするつもり?」
軽快にベンチから立ち上がって俺を振り返る安芸は、思いもよらない質問を投げてきた。奴の真意が分からず、俺は眉をひそめる。
「あ? もう少しで結果が出ると思うから、そしたら俺も帰――」
「違う違う、その〝これから〟じゃないよ。ブリッランテとしての〝これから〟さ」
「はぁ? どういう意味だよ」
また何かおちょくられるのか? と警戒しながら問い返せば、安芸は急に真顔を浮かべて俺を見下ろした。
「……僕は大阪の大学を受けるよ。和泉のために」
予期せず飛び出た〝和泉〟というワードに、一瞬心臓が大きく揺れる。
途端、気高く天を突き抜けるヴァイオリンの音が脳裏に響き、ふわりと舞う檜皮色の髪をした人影が浮かび上がった。そして振り返り、屈託のない笑顔で〝日向……っ〟と呼ぶ。
何をしていても彼女の姿だけは頭に焼き付いて離れなかった。
前世の俺にとって特別で、会ったこともないのに焦がれ続けている存在。
「前世でもそうだけど、今の僕にとっても和泉の存在は絶対だ。ずっと僕を救ってくれた彼女を、今度は僕が助ける。そのためなら何だってするつもりだよ」
「おいおい、それでわざわざ大阪へ移住するってか?」
「もちろんさ。これからもっと大きな試練が待ってるのに、たかが移住くらいどうってことないだろ?」
平然と言ってのける安芸に、俺は愕然とした。だが俺にはコイツのように〝和泉のため〟と即答する決断力がない。さっきのコイツと母親のやり取りを見れば、少なくとも奴の家族は協力的だってことだ。
ブリッランテの話まではしていないだろうが、今の安芸には音楽鑑賞のために車を出したり、大阪の大学を受けることを承諾してくれる味方がいる。コイツがこんなにノーテンキなのは、そういった環境に恵まれているからだと理解した。
一方で、俺の家庭はコイツん家みてぇに円満ではない。そもそも俺はまだブリッランテとしての活動を義務的にやってるし、コンクールはチェロを続けるために参加しているだけだった。前世の存在は俺にとって救いでもあり、足枷でもあるのだ。
俺は〝俺〟として生きたいのに。
「俺は……」
「すぐにとは言わないから考えておいてよ、君とは長い付き合いになりそうだしね。じゃ、僕行くよ」
人の話も聞かず、ヒラヒラと手を振って帰ろうとする安芸。そのお気楽な調子が無性に腹を立てた。
何だよ、一人で楽しくやりやがって。一瞬でも現世のコイツともやっていけそうと思った俺がバカだった。
「おい、待てよッ!」
苛立ちのまま安芸を引き止めようとして肩に手を伸ばした。だが力が入りすぎていたのか、引き寄せた拍子にネクタイごと襟を捲り上げてしまった。
驚いた安芸が慌てて俺の手を払うも、〝ソレ〟を目にした瞬間、怒りも忘れて息を呑んだ。頭の中が真っ白になり、罰が悪そうに襟を正す安芸を呆然と見つめる。
露わになったのは、鎖骨辺りに残された痛々しいアザだった。
「お前、それ――」
「何でもない。昔、色々あった奴と運悪く会っただけさ。大したことないよ」
「大したことないって……、親は知ってんのかよ!?」
半ば声を荒げて問いただすと、安芸は「言ってない」と淡白に答えた。
それがまた俺の怒りに火を付ける。これは安芸に対するものではなく、コイツを傷つけた顔も知らない誰かへの怒りだ。
「何でだよ!? お前はそれでいいのかッ!?」
「いいんだよッ! 僕には……、僕には日向と近江、そして和泉がいてくれればそれでいい!!」
そう啖呵を切る安芸に衝撃を受け、俺はそれ以上アイツに何も言い返すことができなかった。
安芸はそのまま「じゃ。」と一言だけ呟くと、母親が待つ駐車場へと走り去っていった。
入れ違いで、付き添いで来ていた高校のセンコーに肩を揺すられるまで、俺は小さくなる安芸の背中を只々見送った。




