12-2
いつもの朝。
いつもの練習室。
ひとりぼっちの静かな空間に、私は今日もガヴォットのメロディーを響かせている。
合奏の前に弾いておかないと何だか落ち着かなくて……。でもこの曲の明るさが「今日もやるぞ!」という気分にしてくれるから、やっぱり大好きなんだよね。
一人で弾いている間は自分の音に集中するあまり、回りの音が気にならなくなってしまう。だから彼らがいつの間にか入室していたことも、曲を弾き終えて拍手をされるまで全く気づかなかった。
「おはよう、和泉。今日も輝くような音色だね」
「あ、安芸君っ。日向君と近江君も、おはよう」
「ったく、変な奴が入ってきたらどうすんだよ。少しは警戒しろよな」
「うぅ……、ごめんなさい」
清々しい笑顔の安芸君の隣で日向君が呆れ顔を浮かべ、その後ろで近江君が眠そうに欠伸をしている。当たり前のように始まったいつもの光景に、ほんの少しだけ緊張していた私の心が溶けていくのを感じた。
だって、たった5日ぶりだっていうのに、随分長く会っていなかったように思えたから。それだけ先週は濃厚な時間を過ごしたということだろう。3人の連絡先は知ってるけど、平日まで私に付き合わされるのは嫌だろうし。
「和泉。その後、体調はどう? この間は慌ただしくさせてゴメンね」
「ううん、こちらこそ色々ありがとう。お陰様で、このとおり元気だよ」
相変わらず心配してくれる安芸君に、私は力こぶを作るような動作をして答えた。
良かった、いつもどおり話ができてる。でも安芸君の吸い込まれそうな目と合うと、朝湯を浴びに向かったあの瞬間を思い出して、胸の奥がトクリと揺れてしまう。
……ダメだなぁ。いつまでアレを引きずってるんだろう、私。
楽器の準備を始めた彼らを横目に、私はこっそり自分の頬を軽く叩いて気を引き締めた。
「皆、悪いけどちょっと集合して」
私の邪な心境など恐らく知る由もない安芸君が、クラリネットのリードを咥えながら私たちを招集した。何だろう? と不思議に思いながら彼の周りに集まると、順番に何かの楽譜を手渡される。
「何だよ、コレ」
「今度のコンサートで僕たちルミナス・カルテットが演奏する曲さ。あれだけ啖呵切って宣言した以上、最高のパフォーマンスをしないとね」
安芸君からの返事を受け、近江君は「そういえば」と思い出した表情を浮かべた。正直、私もすっかり忘れていたけれど、日曜の午後を楽団の練習から抜ける理由にするため、安芸君は団長に「ルミナス・カルテットで演奏したい」と直談判していた。
口実のためにルミナス・カルテットを利用したとはいえ、もう一度皆とカルテットができることは単純に嬉しいから、私のテンションは一気に上昇した。
「わぁ、楽しみ! 今回も安芸君が選んでくれたんだね」
「いーけど……このクルーセルって誰だよ。初めて聞く作曲家だけど」
日向君が初見の楽譜をしかめ面で眺めながら尋ねた。今回の楽譜は前回のカノンと違い、チェロにもしっかりと音符が並んでいるので、その怪訝な表情は未知の作曲者に対するものと思われる。斯くいう私もこの名前は初めて聞いた。
「ベルンハルト・ヘンリク・クルーセル。クラリネット奏者として名高い、フィンランドの作曲家さ」
「クラ……、どうりでお前の譜面が黒いワケだ。完全にお前が目立つための曲じゃねぇか」
「心外だな。僕は、僕たちが演奏するに相応しいと思う曲を選んだまでだよ」
日向君の冷ややかなツッコミを、あっさりと交わす安芸君。確かに安芸君の楽譜を見れば、真っ黒に見えるほど音符がビッシリ並んでいた。つまり今回は安芸君の素晴らしい演奏が期待できる一方で、私たちは彼を引き立る役目に回るということが明白であり、日向君はそれが面白くないようだ。
「……まぁそうカッカするな、日向。安芸のために一肌脱ごうぜ、どうやら随分と気合が入ってるみたいだからさ」
「ッ、僕は別に……変なこと言うなよバカ」
「何だよ近江、やけに従順じゃねぇか」
怪しく笑みを浮かべた近江君に、何だか安芸君はとても恥ずかしそうだ。不思議に思って近江君の楽譜を覗くと、彼の言いたいことが分かって思わず頬が緩んでしまった。
今回の曲は、クラリネット・ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロで演奏する四重奏であり、ヴィオラパートは同等の音域を出すファゴットの近江君が代奏することになる。それにはまず楽譜の置き換えが必要だ。
実は同じ楽譜でも、楽器によって表記の仕方は様々。ファゴットは〝ド〟の位置が五線譜の下から2番目と3番目の線の間(第2間)である『ヘ音記号』の譜面に対し、ヴィオラの楽譜は『ハ音記号』といって〝ド〟は五線譜の中央の線の上(第3線)になる。
もちろん、そのままでも演奏できなくはない。でも奏者にとっては普段見慣れている譜面のほうが読みやすいし、演奏にも集中できるのは言わずもがな。今はアプリなどを使えばすぐにできるけど、奏者には地味に面倒な作業なのだ。実際、カノンの時は近江君が自分でやっていた。
ところが、いま近江君が持っているのは、既にファゴット譜へ置き換えられたものだ。要するに安芸君は兼ねてからこの曲を私たちの楽器構成で演奏するつもりで、粛々と準備をしていたわけだ。
――以前に私と演奏したいと望んでくれていた、フックスのデュエットのように。
「やっぱり安芸君って可愛いなぁ……」
「む。和泉、何か言った?」
「な、ななななななにも!?」
横目で眺めてくる安芸君に慌てて誤魔化す。
危ない。またからかわれたら、今度こそ心臓が持ちそうにないもの。
「明日は武蔵さんの招集があるから、その後に時間があれば早速合わせたいけど、できそう?」
「任せて! それまでには弾けるようにするから」
安芸君の要求に私はガッツポーズをして応え、日向君と近江君も小さく溜息を吐きながらも頷く。何といっても皆、演奏の腕前は確かなのだから、不可能ではないのが何とも頼もしい限りだ。
音楽家としても知らない曲に出会うのは、いつだって胸が躍るもの。私は明日の合奏が楽しみで仕方がなかった。
そして毎度の如く「おはよーさぁん!」という団長のビッグ挨拶が響いたところで、私たちは各自の席へ戻るのだった。




