第五幕 名前
日の光が赤みを帯び始める頃、僕は大きな病院を前に立ち尽くしていた。
緊張しているのは、ライアから無茶な要求を突きつけられたからだ。
彼女の要求は三つ。
一つ目は、陣営の存在を確認すること。
二つ目は、もし陣営が聖遺物を所持していたら、それを強奪すること。
三つ目は、その陣営と和解するか、さもなくば殲滅すること。
ただし、彼女の口ぶりからして、二つ目と三つ目はそれほど期待されていないらしい。おそらく、本当に求められているのは一つ目だけだろう。
四つ目の要求もあるようだったが、結局教えてもらえなかった。今の僕には実行できないと判断されたのだろう。
不満ならいくらでも挙げられる。
聖遺物がこの戦争においてどれほど重要なのか、願望機に次ぐ存在だということしか教えられていない。そもそも、まともな戦闘経験すらない僕に任せる仕事ではないはずだ。
考え始めればきりがない。
「……まあ、やるしかないか」
今にも出て来そうなため息を抑え、目の前の病院を見上げた。
ライアが言っていたとおり、ここには好ましくない雰囲気が漂っている。
病院という場所が、人の生死と切り離せない以上、どこか落ち着かないのは仕方がない。けれど、それだけでは説明できない違和感があった。
この場所を流れる霊脈の気配が、ほかの場所とは明らかに違う。
流れが歪み、どこか淀んでいる。
理由は分からない。ただ、長居したい場所ではなかった。
病院の中へ入ると、外観からは想像できないほど白を基調とした空間が広がっていた。
建物は五階建て。壁や床は隅々まで整えられ、構造にも無駄がない。この国の建設技術には、感心させられるばかりだった。
とはいえ、今は見学に来たわけではない。
人目を避けるようにロビーを抜け、西側に設けられた屋外階段へ向かった。足早に階段を上りながら、目的の場所を頭の中で確認する。
四階の東棟。左から四番目の窓がある部屋。
そこは、霊脈から流れ込む魔力がほかの部屋よりも明らかに多かった。
まずは部屋の様子を確認し、陣営が存在するかどうかを確かめる。
それだけでいい。
余計なことはしない。聖遺物を奪う必要も、陣営と和解する必要も、ましてや殲滅する必要もない。
ただ確認するだけ。
それだけでいい。
それだけでよかったのに。
僕は、蝶を見つけてしまった。
人混みの向こうを、白い髪がひらりと横切る。
見間違えるはずがない。
あの夜、僕に手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた少女だ。
彼女は何事もなかったかのように、軽やかな足取りで歩いていた。
気づけば、僕は彼女を目で追っていた。
その時にはもう、調査のことなど、頭から抜け落ちていた。
蝶を見つけた幼子のように、ただ、その姿を追いかける。
ありがとうと伝えたかった。それだけのはずだった。欲を言えば、名前も知りたかった。
白い髪が人混みの向こうへ消えかける。
僕は慌てて後を追った。
三階の廊下は人で混み合っていた。行き交う人々の隙間に、彼女の後ろ姿が見え隠れする。
目立ってはいけない。そう自分に言い聞かせていたはずなのに、今はそんな決まりさえ忘れていた。
階段へ向かう彼女の背中が、はっきりと見えた。
「白髪のそこのあなた!」
考えるより先に声が出た。
彼女は足を止め、きょろきょろと周囲を見回した。まさか自分が呼ばれたとは思っていないらしい。
やがて僕を見つけると、少し驚いたように目を丸くした。
「あ、あの日、林檎をくれてありがとうって言いたくて。偶然ここであなたを見かけたから……」
言葉にすると、ひどくぎこちなかった。
彼女は僕を見つめ、それから、あの夜と同じように笑った。
満月のような、明るい笑顔だった。
「いいの、いいの。私こそ、あの夜にもらった林檎のお返しだから」
その言葉を聞いて、その夜の記憶が鮮明によみがえった。
試験の前日。どうにも眠れず、気晴らしに夜の街を歩いていたとき、僕は彼女に出会った。
父さんや母さんから、何度も聞かされてきた言葉がある。
『徳を積みなさい』
僕はその教えに従い、彼女に林檎を渡した。
不幸そうに見えた彼女を、少しでも元気づけたかった。それは確かだ。
けれど、翌日の試験に向けて徳を積んでおこう、という打算もあった
善意と打算。その両方が混ざった、我ながら偽善としか言いようのない行動だった。
「い、いや、そういうつもりだけじゃなくて……」
「たとえそういうつもりだったとしても、あの林檎はとっても嬉しかったよ」
彼女は屈託なく答えた。
「で、でも、僕はあなたから服までもらっちゃったし……。どう考えても釣り合わないよ」
「釣り合うとか、釣り合わないとか、そういう問題じゃないの。それに、そんなに畏まらなくてもいいよ」
彼女は少し考えるように首を傾げたあと、思い出したように手を打った。
「あ、そういえば、まだ名前を言ってなかったね。イヴ・プレカリっていうの。よろしくね」
「こちらこそ。僕はレノン。レノン・エルダ」
「レノン、か。いい響きね」
名前を口にしてもらっただけなのに、なぜか少し気恥ずかしかった。
「そうだ。レノンは病院に何の用があるの? 会いたい人がいるなら案内するよ。私、今は見習いとしてここで働いているから、ある程度なら分かると思う」
願ってもない申し出だった。
ただし、彼女に本当の目的を話すわけにはいかない。
「えっと……親戚の知人が四階の四号室にいるって聞いて。その挨拶に…」
嘘をつくことに、少しだけ罪悪感を覚えた。
けれどこの機会を失うわけにはいかない。
「そうなんだ。じゃあ、そこまで案内するね」
イヴは疑う様子もなく、あっさりと引き受けてくれた。
僕たちは並んで階段を上った。
道中、イヴはこの街のことをいろいろと教えてくれた。美味しい飲食店や、景色の綺麗な場所。話題は自然と彼女自身のことにも及んだ。
今は両親が行方不明で、執事と二人で暮らしているらしい。
彼女はそれを淡々と話した。少なくとも、僕には深刻さを隠そうとしているようには見えなかった。
やがて、僕のことも聞かれた。
戦争から逃れてきたことは事実だ。けれど、事情を詳しく話して同情されるのは避けたかった。
「戦争があって、親戚の家に逃げてきたんだ」
結局、それだけを伝えた。
それ以上、彼女も深く尋ねてはこなかった。
そうして話しているうちに、僕たちは東棟の四階へたどり着いた。
その瞬間、肌にまとわりつくような違和感が強まった。
湿度は高くない。むしろ、空気は心地よいくらいに澄んでいる。
それなのに、ひどく息苦しかった。
まるで、体の中には十分な血液が流れているのに、さらに大量の血を無理やり注ぎ込まれているような感覚だ。
体の内側から、何かに圧迫されている。
「……」
隣を見ると、イヴは何事もないような顔で歩いていた。
僕だけが、この異様な空気に苦しめられているらしい。
目的の部屋に近づくにつれて、違和感はさらに強くなった。
足を進めること自体を拒まれているようだった。頭がふらつき、胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。
それでも、ここまで来た以上、確認しないわけにはいかない。
部屋の前にたどり着いたときには、立っているだけでもつらかった。
イヴは僕の様子を気にすることもなく、扉を開けた。
中には、六人の患者がベッドに横たわっていた。
病室そのものは、ほかの部屋と大きく変わらないように見えた。
目を凝らすと、各ベッドの脇に置かれた機材が目に入った。
人工の魔術回路だ。
無数の回路が複雑に絡み合い、脳の神経を思わせる構造を形作っている。ひと目見ただけでも、相当な技術が注ぎ込まれていると分かった。
そして、それを稼働させるには膨大な魔力が必要になるはずだ。
この異様な圧迫感の原因は、おそらくそれだろう。魔術に精通した者ほど、周囲に満ちる魔力の異常さを強く感じ取ってしまうのかもしれない。
そう考えると、少しだけ納得がいった。
何より、病室には陣営の人間らしき姿が見当たらない。
ひとまず、任務の第一段階は空振りだった。
そう思った、瞬間だった。
背後から、先ほどまでの不快感など比べものにならないほど強烈な気配が迫った。
肩に、手が置かれる。
「何か用があるんですか?」
男の声が耳に届いた。
体が強張った。
振り返らなければならない。それなのに、体が言うことを聞かない。
魔術師特有の気配とは、明らかに次元が違う。
「あ、イワン先生。いらっしゃったんですね」
イヴの声を聞いて、ようやく体が動いた。
振り返ると、そこには茶髪の男性が立っていた。年齢は三十代くらいだろうか。
「ああ、いかんいかん。回路を働かせたまま来てしまった」
男がそう言った直後、周囲を押し潰していたような気配が、嘘のように薄れた。
肺に詰まっていた空気を、ようやく吐き出せた気がした。
「君は、どうしてここにいるんだい?」
男の視線が僕に向けられる。
先ほどの嘘を、もう一度使う気にはなれなかった。
目の前の男は、戦争に参加している人間でなくとも、下手なことをすれば身の安全が保証されない。そんな印象を抱かせる人物だった。
僕の緊張を察したのか、男は少し表情を和らげた。
「そんなに強張らなくても大丈夫だと思うが……。ああ、私はこの病院で魔術医療を担当している者だ」
魔術を扱う医師は、一般の医師よりも魔術回路が発達していると聞いたことがある。
しかし、ここまでの回路を持つ人間は見たことがなかった。
この男は何者なんだ。
疑問は尽きなかったが、今はそれを口にするべきではない。
「ファル・エルダって人を知っていますか? その……この病院にいると聞いたんですけど」
「そんな人は、この部屋にはいないらしい」
男は、そう答えた。
病院全体にいないとは言わなかった。その言い方が少し引っかかったものの、追及するわけにもいかない。
「そうですか……。別の棟の部屋かもしれません。ご迷惑をおかけしてすみません」
「レノン君、ここじゃなかったの?」
イヴが不思議そうに僕を見た。
「ああ、どうやら違ったみたいだ。また後日にするよ。ほら、もう日も暮れてきたし」
「そっか。じゃあ、行こっか」
イヴは納得したように頷き、病室を出た。
僕もその後に続く。
「……イワンさん、ありがとうございました。失礼します」
最後に頭を下げ、立ち去ろうとした。
そのときだった。
「ステラとは仲良くしてやってくれ」
すぐ耳元で、男が囁いた。
足が止まりかけた。
けれど、振り返ることはできなかった。
イワンは何事もなかったかのように病室へ戻っていった。
思考が止まる。
なぜ、この男があの女の名前を知っている?
ステラとどういう関係なのだろう。まさか、敵の陣営に属しているのか?
考えたとしても、答えは出なかった。
「レノン、どうしたの?」
先を歩いていたイヴが振り返った。
「い、いや。何でもない」
「そう? じゃあ、行こ!」
彼女に促されるまま、僕は歩き出した。
分からないことは多い。けれど、今ここで考えたところで、何も解決しない。
ひとまず、これでいい。
陣営の存在は確認できなかった。それでも、ステラに関係する人物がこの病院にいることは分かった。
報告する価値はあるはずだ。
病院を出る頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
「私、そろそろ退勤の時間だから帰るね。レノンはどっちの方向に住んでるの?」
僕は北の山を指さした。
「山の麓あたり。今はそこに住まわせてもらってるんだ」
「えっ、あんなところに? ちょっと不便そうね」
「まあ、住まわせてもらっている身だから、文句は言えないけどね。実際、不便だよ」
「そっか。私の家は反対方向だから、ここでお別れだね」
「うん。それじゃあ、また」
僕たちは別々の方向へ歩き始めた。
もう会うこともないかもしれない。
そう思いながら数歩進んだところで、背後から声がした。
「レノン!」
振り返ると、イヴがこちらを見ていた。
「またいつか、この病院でもいいから遊びに来てね」
そこで一度、言葉が途切れた。
「……できるだけ近いうちに」
胸の奥が、ほんの少しだけ弾んだ。
けれど、それを顔に出すのは何となく恥ずかしかった。
「分かった。また近いうちに。じゃあね、イヴ」
今度こそ、僕たちは別々の道を歩き始めた。
夕暮れの街に、白い髪の少女の姿が遠ざかっていく。
僕はしばらくその背中を見送ってから、ようやく前を向いた。




