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何もなかった

 知らない天井だ。

 空は目を覚まして最初に映ったものに、空はどこかで聞いたことのある感想を抱いた。

 清潔感のある白いカーテンで区切られたベッド。空はどうやらベッドに寝ていたらしい。なんだか学校の保健室を思わせる。多分医務室なんだろう。


「帰って、きたのか?」


 呟きは確かに言葉となった。腹の虫が食べ物を求めて鳴く。少なくとも体はちゃんとあるようだ。

 空はまだ自分の状況を信じられないでいた。まだ夢を見せられている可能性も否定できない。だが、夢だからといってすぐに事態を動かすつもりはないようだ。考えをまとめるにはちょうどいい。


 空の脳裏に浮かぶのは、自分とまったく同じ姿をしたシュテルンの姿だった。

 多分アイツがシュテルンのトップ。ラスボスなのだろう。初めから敵対意識をしっかり持っていれば戦争を終わらせられたかもしれない。武器を持っていなかったし、勝てる確率はすごく低かっただろうが。

 ――色々聞いた。俺のこととか健太郎のこととか。


「シュテルン、か」


 自分の手を見る。この手はシュテルンのものだ。空からすれば敵の手ということになる。

 手だけではない。足も胴体も顔も脳ですら、空はシュテルンによって作られた。

 今まで戦ってきた意味も変わってくる。空は人類を救うために戦ってきたわけだが、シュテルンの言葉を信用するなら彼は同胞を殺して回った裏切り者となる。

 後悔はない。空が戦う理由には影響がないのだから。だが、それでも思うところはある。


「……ん」


 ベッドに頭を乗せて、胸のロケットを握りしめた状態で寝ている金髪の少女が寝息を漏らす。


「ありがと。助かったよ……」


 ずっと一緒にいてくれたようだ。彼女には感謝してもし足りない。

 空は絹のようにサラサラとしている感触を楽しみながら、彼女の髪を指で梳いた。


「……あれ? どうして」


 少女は頭を撫でる感触を幸せそうな顔で受け入れてくれた。


「名前が、出てこないんだ?」


 彼女の顔を、ずっと見たかった。

 長い時を彼女たちに会いたい一心で乗り越えた。

 なのにどうして、その情報だけ欠落してしまったかのように思い出せないんだ。


「――んぅ?」


 空の動揺が手を伝わってしまったのだろうか。金髪の少女のまぶたが震えた。


「おはよう」


 目が合った空は手を放す。少女の髪の感触はかなり名残惜しかったが、彼女がその対応を嫌うことは何となく覚えていた。


「…………」


 少女は黙ったまま空を見つめていた。空も一度合わせた視線を逸らすのもどうかと思うので目を逸らさない。二人は無言で見つめ合った。


「ええっと?」

「起きてるっ!?」

「ごふぅっ!?」


 沈黙に耐えられなくなった空が声を出した瞬間、金髪の少女が恐ろしい勢いで抱き着いてきた。

 さすがの空も鳩尾に少女の頭が減り込めばうめき声をあげてしまう。胃に何も入っていなくて助かった。食事の後だったらきっと中身をぶちまけていただろう。


「いきなり何を――」

「よかった。もう二度と目を覚まさないのかと……」

「……悪かったよ」


 突然の奇行に走った少女に文句の一つでも言おうと思ったが、心配されていたとなると何も言えなくなる。

 彼女たちに心配をかけたのは確かだ。どれぐらい寝ていたのか分からないが、彼女の様子から考えると三十分というわけではないだろう。


「ホントよ! いくら命令されたからって、敵の懐に飛び込んでいいわけないじゃない!」

「そう、だな。敵、だったな」


 今や空自身もその敵ということになるんだが。


「今司令官たちに報告したから、ちゃんと謝られなさい。三日間も寝ていたのよ司令官のせいで」


 何かした様子はなかったが、確か少女たちは共感覚とやらが使えたはずだ。それで報告をしたのだろう。

 プリプリと怒っている金髪の少女。空は懐かしさに目を細めた。


「シレイカン? 何のことだ?」


 だが、司令官という人間の情報は思い出せない。

 今の空はほとんどの記憶を風化させてしまっている。思い出せる記憶のほとんどはシュテルンから与えられた情報だけだ。だから彼女の名前を思い出せないし、シュテルンにとって必要のない事柄は記憶にない。


「はぁっ? 司令官は司令官よ。アンタたち親友とか言ってなかった?」

「ああ、裏ぎ――健太郎のことか」


 一瞬本心が出そうになるのを、空は言葉を飲み込んで抑え込んだ。

 健太郎は裏切り者ではない。シュテルンを倒すためにエイロネイアを立ち上げた、人類の救世主なのだ。


「――空?」


 金髪の少女には勘付かれたらしい。心配そうに表情を歪ませる。


「目を覚ましたか空。収穫はあったか?」

「――ッ!」


 健太郎の顔を見た瞬間、殺意の衝動が空を突き動かす。

 空は起き上がろうとして右手に力を入れる。しかし体は空の動きに耐えられなかったようで、踏ん張り切れなかった右手のせいで空はバランスを崩した。


「きゃっ!? ちょっと何しているの?」


 少女が突然の奇行に悲鳴をあげて、空の体を支える。


「どうやら絶好調みたいだな」

「司令官。言い方というものがあるんじゃないですか?」

「それは空の報告で決める。どうだった? シュテルンについて何か掴めたか?」


 ――お前も俺もシュテルンなんだってな。知っていたか?

 空は言ってやりたかったが、少女がいるので自重した。

 未だ殺意は消えない。シュテルンは厄介なものを植え付けてくれたものだ。


「いや、何もなかった」

「それは本当か?」

「ねえ空。何かあるのなら正直に教えて。アイツらの弱点とか」


 心配そうに眉を寄せる少女に、空は抗いがたい殺意を必死に抑え込む。

 空と健太郎の確執に、彼女は何の関係もない。無駄な心配をかけるわけにはいかないんだ。

 空も健太郎も、シュテルンと敵対しているのだから。


「……そういえば」

「うんうん」

「どうも記憶障害があるらしい。アンタの名前が出てこない」


 頷きながら相槌を打つ少女を指差して、空は思い切って告白した。

 まさか自分の名前を知らないと言われるとは思わなかったんだろう。少女は両目を見開いてショックを受けていた。


「そうか。その程度か。思いのほか使えなかったな」


 部下が傷ついているのに、その程度だと。

 空の空じゃない部分が生かしてはおけないと叫ぶ。だが、その思考だけは認めるわけにはいかない。


「シトラ。また自己紹介してやりなさい」

「……はい。分かりました」

「大丈夫だって。記憶が全部無くなったわけじゃない。名前が出てこないだけなんだから」


 少女の泣きそうな頬を、空は優しく撫でた。

 何だか手が真っ赤に染まっている気がした。空が触れることで、少女を汚してしまっているような、そんな感覚がした。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


次回は今日午後6時更新予定です。

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