いない
「んっんー」
「分かりやすいぐらい上機嫌だな」
ステラに帰ってきてもずっと鼻歌らしきものを歌っているイリーナに空は苦笑した。
鼻歌らしき、というのは彼女が絶望的にオンチだからだ。ほとんど音程が変わっていない。
「んっ」
「誰かに物貰うの初めて? そんなわけないだろ」
振り向きざまの笑顔に、空は鼻を抑えた。いつも無表情だった年下の美少女が見せるとびきりの笑顔だ。破壊力はばつぐんだった。
「んーん」
「……本当にないのか? 家族とかは?」
首を横に振るイリーナに、空は軽い気持ちで聞いてしまった。
失言だった。シトラは家族がいないし、エンは家族を毛嫌いしている。エイロネイアにいる以上、イリーナも複雑な事情があるはずだ。
空は反省する。しかし、一度放たれた言葉は取り返しがつかない。
「ん」
”いない”
イリーナは無表情に戻っていた。
「ん」
”物心ついたときから施設にいたから”
それは幼い少女が背負うにはあまりにも過酷な、最悪の状況だった。
シトラもエンも、そして空も家族はいる。それぞれの事情があり今は会えないが、それでも家族というものが存在していた。
だがイリーナには家族がいない。両親に愛情を注がれるどころか、歪んだ愛情すら受け取れていない。
一概に悪いとは言えないのかもしれない。エンのようにどうしようもない親で、虐待されることはなかったのだから。
だが、家族がいれば無口な少女は生まれなかったはずだ。幼少期から理解者が寄り添っていれば、戦闘機に乗ることもなかったはずだ。
「悪い。そんなつもりじゃなかったんだ」
「んーん」
”謝らなくていい。事実は変わらないから”
変わらないって、そんな寂しいこと言うなよ。
イリーナの顔は無表情のままだ。それが余計と空の胸を締め付けた。言葉に嘘はないと理解してしまった。
「ん」
”私はエイロネイアが運営する孤児院で育った”
そもそもエイロネイアが孤児院を経営していることすら知らなかったが、彼女が言うからにはそうなんだろう。
目的は恐らく三つ。一つは共感覚の持ち主を見つけるため。もう一つは慈善活動をするという世間へのアピール。最後の一つは違ってほしいが、ネオン教授に渡すためのおもちゃを工面するため。
「ん」
”共感覚は最初からあったから、多分両親に売られたんだと思う”
イリーナは淡々と予想を口にする。と言っても元から無表情だし何なら言葉も吐息交じりの一言だけだったが。
「んーん。ん」
”別に悲しいとは思ってない。空やシトラたちに出会えたのは両親のおかげだから”
空の感情を読んだのだろう。イリーナは首を横に振った。
「会いたいと思ったことはないのか?」
「んーん」
”ない。興味も湧かない”
空の問いは首を横に振ることで否定された。
「ん。ん」
”エンみたいに嫌ってるわけじゃない。本当に興味がない。赤の他人に過ぎないから”
エンがイリーナに直接話をしたのかは分からない。彼女も中々に強情だ。少なくとも言いふらすような性格ではない。空もエンの口からは一つも過去を教えられていないのだから。
「実の両親だぞ。血のつながった家族なんだ。そんな寂しいこと言うなよ」
分かっている。空にとっての常識を彼女に押し付けていることぐらい。
だが、それでも言わずにはいられなかった。だって家族に会いたくないなんて寂しいじゃないか。
「ん」
”寂しくない。私の家族は初めからいない。だから寂しいと思うこともない”
イリーナの表情筋はやっぱり動かない。
空は鉄仮面のような彼女の額を、人差し指で弾いた。デコピンというやつだ。油断していたのか、イリーナはまともに食らった。
「……ん」
”……痛い”
「お前が寂しくないって言うんならとやかく言うつもりはないさ。色々言いたいけど、我慢する」
両手で額を押さえるイリーナの頭を右手で撫でながら、空は左手を強く握りしめていた。
彼女は何も悪くない。むしろ被害者だ。空の感情をぶつけるのはお門違いにも程がある。
「だけど家族がいないってのは違うぜ。俺はイリーナを家族の一人だと思ってる。イリーナは違うのか?」
恐らくイリーナには見破られているのだろうが、空は怒りの代わりに不敵な笑みを彼女にぶつけた。
イリーナは両目を見開いて、驚いた表情を見せた。戦場でもこんな顔はしないだろう。してやったり。
「まっ、俺がどうこう言える立場じゃないか。でもシトラには言うなよ。俺より怒られるぞ」
「――ん」
「イリーナ?」
イリーナの頭から手を放すと彼女の体はがくりと揺れて、崩れるようにして倒れた。
「おいイリーナ!? しっかりしろ!」
空の声にも反応しないイリーナ。気を失っているようだ。確か気絶した人を無闇に動かすのはよくないとか何かの本で見た気がする。
空は深呼吸を一つしてからケガがないか確認して、助けを求めることにした。本当はシトラとかに連絡したいところだが、彼女たちの端末は共感覚がないと使えない。今この瞬間だけは、共感覚がないことを悔しく思った。
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