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六道の辻・転「遠ざかる君へ伝えたい」

 病院の隔離病棟は夜の闇よりも深い静寂に包まれていた。中島 航一はベッドの上で目を閉じていた。体は熱に浮かされ、息をするたびに胸が重く締め付けられる。酸素マスクの下で唇が微かに動き、夢の中へと落ちていった。


 暗闇の中で微かな光が瞬いていた。最初は遠い点だった。やがて、それが星だと分かる。航一はゆっくりと目を瞬かせた。夢の景色は無数の星が夜空いっぱいに広がっていた。冷たい夜気。遠くで鳴く虫の声。辺りにはハマヒルガオが風に揺れ、まるで記憶そのもののように漂っている。そこは見覚えのある景色だった。海近く遊歩道脇の小藪の小さな広場。子供の頃に連れられて来た祖父の故郷の宮津。


 体が鉛のように重く、足が石畳に根を張ったように動かない。航一はなんとか顔を横に振り向けると、そこには亡くなった祖父が折りたたみ椅子に腰掛けていた。


「航一。お前、こんなところまで来るには、まだ早すぎるぞ。」

「……じいちゃん……息が……苦しい。体が、動かない……」


 祖父が生前とまったく変わらない顔で、記憶の中にある通りの穏やかで深みのある声を紡ぐ。かつて航一に将棋を教え、冬の寒い日には決まって出汁の効いた鍋焼きうどんを作ってくれた大好きな祖父。祖父の大きな手が航一の額に優しく触れると、夢の中でもマスクをした時のような息苦しさが、ほんの少し楽になった気がした。


「やり残したことや、伝えたいことも、まだまだ色々あるだろう。頑張れ、航一。」


 やり残したこと――その言葉が航一の胸に深く刺さった。祖父がいつも教えてくれた「夢に向かって邁進する」こと。それは航一にとって一番の人生の指針だった。蓮と一緒に行った京大の文化祭へ行った時の光景が浮かぶ。教師になって教育現場の疲弊を少しでも変えていきたい。あの立て看板で見た「心に寄り添う教育」を本当に実現したい。


 伝えたいこと――誰かに何かを伝えたい。やっぱり一番最初に思い出すのは、明るくて、まっすぐで、子供っぽくて騒がしい。いつも隣にいる友達の蓮だった。その蓮が自分を恋愛対象として見つめていたこと。星型のチャームを握りしめ告白されたあの想い。航一は蓮のことが嫌いじゃない。むしろ幼い頃からずっと傍にいてくれた大切な存在だ。でも応えられない。何故なら恋愛よりもずっと大事なものがあるから。


 まずは何よりも自分の夢に向かって邁進すること。それが祖父の遺した一番の大切な教えだった。でも、それを馬鹿正直に蓮に伝えても、蓮を傷つけるだけになるだろうし、友達として傍にいることも出来なくなるだろう。大切な友達の心に寄り添うことも出来ない、そんな人物が心に寄り添う教育なんて出来るのか。


「迷ってもいいんだ。大事なのは周りに流されず自分で選ぶことだ。お前には見えてるだろ、自分の道が。」

「北斗七星は北を教えてくれる。迷ったとき、どこにいるか教えてくれる星…だよね、じいちゃん。」


 子供の頃、何度も聞いた話だった。星は変わらない。十年前も、今も。星空を見上げると満天の星の中に一際明るく輝く星が見える。自分の目指すべき目標。祖父が静かに見守る中、航一は動かない体に喝を入れ、歯を食いしばり、必死に体を動かそうとした。指先がわずかに震える。でも、足は動かない。息が詰まり、視界がぼやける。


 その時――空の彼方の遠くから別の音が聞こえてきた。何かが紙の上を滑る音。激しく殴り書きするような鉛筆の音。そしてクリスマス・プレゼントの交換会で、自分が選んだプレゼントを壮真が引き当て、蓮がぎゃあぎゃあ言って交換させた、あの無機質なロボット時計が時を刻む音がした。


「航一……俺、京大に入れるように勉強頑張るから。計算ドリル、体に叩き込むために三周目終わったぞ。お前が戻ってきたら、今度は俺が教えてやるんだから……だから、絶対に病気になんかに負けるな!」


 蓮の声だった。夢の中なのにハッキリと温かく響く。泣きそうな、けれど決意に満ちた蓮の声が、暗闇の向こうから聞こえてくる。航一はハッとして祖父の方を見ると、微笑み優しく頷かれた。


「ほら、聞こえただろう。友達が待ってる。頑張れ、航一。」


 祖父の言葉が重ねるように胸に染み渡る。蓮の声が星空を震わせ、金木犀の香りを濃くした。航一の指が、ゆっくりと――ほんの少しだけ――動いた。息がわずかに楽になる。体が夢から一歩を踏み出そうとする。


 夜空が少しずつ明るくなっていき、祖父の姿が優しく光に溶けていく。星が薄れていく。現実の病室で、航一の瞼が微かに震えた。モニターの音が少しだけ強く鳴った。


 ピッ……ピッ……ピッ……


 黒猫の緑の瞳が病室の外で静かに航一を見守っていた。閉ざされた世界に微かな希望を運ぶように。

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