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東大路通・承「ただ祈る事だけなんて」

 三月に入った京都は普段より静かだった。寒さに身を縮こませる冷たい風が祇園の街を通り抜ける。不要不急でなければ、わざわざ外に出かけようとは思わない寒い冬。あのクリスマス・プレゼントの買い物の日、老女クロミツが囁いた言葉――「この街は、もうすぐ閉ざされるよ」――が、現実のものとなっていた。 


 テレビのニュースは連日、同じ映像ばかりを流していた。横浜の港に停泊した巨大なクルーズ船。上空から撮影された外へ出られない乗客たちの姿が小さく見える。――未知の伝染病。専門家が難しい顔で、感染力の強い新型ウイルスの発生と乗客乗員の隔離が続いていることに説明を加えていく。不要不急の外出を控え、マスクの着用と手洗いの徹底を促す報道が続く。


 日本でも有数の一大観光地である京都は、その新型ウイルスの影響を特に色濃く受けた地域と言えた。観光客の姿が急に減り、京阪電車・祇園四条駅から八坂神社へと続く道は、去年の同時期と比べると半減どころではない、八割減といった様相を呈し閑散としている。学校も本来なら三年生の卒業式や新入生の入学式で慌ただしいはずの時期だった。なのに突然の緊急連絡で「長い春休み」になった。


 そんな去年とは全く違った静けさが覆う日常の朝早く。クリスマスのプレゼント交換会でゲットした無機質なロボット時計。その目覚まし時計が突然優しい声で鳴った。『蓮、勉強の時間だぞ。起きろ、子供のようにいつまでも寝てるな。』 中島 航一の声だった。プレゼントのときに拝み倒してイヤイヤながら録音してくれたもの。綿貫 蓮はハッと目を覚まし、ロボットの頭を叩き時計の文字盤をじっと見つめた。


「……おはよう。」


 返事はない。ただ時間の表示が刻一刻と進み、蓮の気持ちを焦らせていく。このまま航一との関係性はこれで本当に良いのか。窓の外では行き場を失ったように見える黄色いミモザが花を咲かせていた。


『航一、春休みになったけど一緒に勉強しない? 俺、京大の過去問持ってるぜ!』


 蓮はベッドから起きると、机に座りスマホを握りしめた。画面には中島 航一へのメッセージが未読のまま表示されている。いつもなら20時前の風呂に入るついでにメッセージをくれるのに。すでに送信してから三日が経つのに既読すらつかなかった。何かあったんじゃないかと胸の奥がざわつき、グループLINEを開き友人たちに呼びかけた。


『みんな、航一に連絡ついてる? 俺、全然返事ないんだけど……』

『<思考中>』

『拓也~、真面目に聞いてるんだけど!?』

『中島から頼まれてた、天橋立近くのグルメ情報リスト送ったんだけど、返事ねーなあ。』


 清水 拓也がすぐに思考中のスタンプを返してきたが、特に航一の情報を持っているわけではなさそうだった。情報通の拓也が情報を持っていないなんて、蓮の心に不安がインクの染みのように広がっていく。


『俺もだわ。昨日電話したけど出ない。』

『もしかして風邪? この時期、なんかヤバい病気が流行ってるってニュースで……』


 遅れて広瀬 昴晴と高木 壮真がメッセージを返してくるが、誰も確かな情報を持っていなかった。ただ、皆の不安が画面越しに伝わってくる。蓮はスマホを握ったまま、窓の外の静かな街並みを見つめた。あの黒猫の瞳が脳裏に浮かび、クロミツの言葉が胸に重くのしかかる。


 ――初恋は実らない――ことわざとしてもおかしくないほどによく言われる言葉。そんな強迫概念の言葉が蓮を後押しする。何かに集中してなければ不安がどんどん広がってしまう。初恋は自分を傷つけるだけの自傷行為。そんなことはないと、その不安を拭い去るように、蓮は勉強に打ち込んだ。


 時間が過ぎ去るのを忘れるかのように勉強に集中していたら、いつの間にか机に突っ伏していた。すると突然スマホが震え、蓮は飛び起きた。着信は航一の母親からだった。


「綿貫くんですか? ……ごめんね、急に。」

「あ、いえ! 航一のお母さん…ですか?」

「ええ、そうです。航一がね、入院したの。どうも流行の未知の病気にかかってしまって……。今は私達も隔離されるし面会も出来ないの。でもね、航一がどうしても伝えてほしいって、看護師さんから話が合ったの。『俺のことは心配するな。ちゃんと毎日勉強しろよ』って。」


 電話の向こうの声は震えていた。蓮は言葉を失った。航一が病床で自分のことを考えていてくれた。病気にかかっても蓮のことを考えてくれる航一。その優しさに目頭が熱くなり電話を切ったあと涙がこぼれた。


 いてもたってもいられなくなり、蓮はコートを羽織って飛び出した。夜の京都は冷たく街灯だけがぼんやり光る。病院は東山丸太町の交差点より少し北上した位置にある。航一と一緒に豆餅を買いに行った時と同じ、東大路通を今度は一人で自転車のペダルを漕ぐ。


 冷たい夜風が体を芯から冷やす頃。蓮は病院の前に辿り着いたが、遠くから建物を眺めることしかできなかった。入口には「面会謝絶」「完全隔離」の看板が張られ、マスクをした看護師たちが忙しそうに動き回っているのが遠くから見えた。蓮はフェンスの外に立ち、ただじっと病院を見つめた。どの部屋に航一がいるのかもわからない。ただ心の中で叫んだ。


『航一……俺、勉強頑張るから! だから、絶対に航一も病気になんか負けるな!』 


 帰宅した蓮は航一のことを少しでも考えないように、また勉強に打ち込んだ。京大の過去問、数学、英語、理科。ペンが走るたび問題が次々と解けていく。解答用紙は黒く埋まっていった。


 でも、初恋の解答用紙は白紙のまま。航一の声。航一の横顔。航一の温かい手。不思議な路地裏で再確認させられた、あの想いが胸の中で渦を巻く。問題集のページをめくる指が震え、時折、窓の外の静かな夜に耳を澄ませてしまう。あの黒猫が再び現れてくれないか。クロミツが何か教えてくれないか。でも、世界は閉ざされたままだった。金木犀の香りさえ、どこにも漂わなかった。

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