河原町通・起「未来が辛く悲しくても」
十二月の京都は、冬の澄んだ空気に鴨川のせせらぎが響き、四条通はクリスマス・イルミネーションに彩られていた。綿貫 蓮は自転車を京阪・祇園四条駅の駅前にある駐輪場に止め、リュックを背負い直しながら、いつもの仲間たちと合流した。今日はクリスマス会のプレゼント交換のための買い物日。学生が五人集まっての街歩きは、観光客よりもずっと五月蠅く賑やかだった。
「綿貫~、おせーよ。」
「ゴメンゴメン! 今日はあの日で!」
「あの日ってなんだよ、わたぬー。」
「……寝坊の日だろ。蓮は金曜日の夜は勉強で徹夜して、いつの間にか机で寝るのがいつものパターンだ。」
「うわー!! 航一、バラすなんて卑怯なり!!」
「ハイハイ、みんな揃ったな! 予算三千円以内だから、いい感じの店探しだ!」
スポーツバッグを肩にかけた広瀬 昴晴が、手を挙げて声を弾ませた。中島 航一はいつものように無愛想な顔で小さく頷き、星型のキーホルダーがリュックの紐で軽く揺れた。清水 拓也はスマホを片手に情報通らしい笑みを浮かべ、高木 壮真は可愛らしいマフラーに顔を埋めて「寒っ!」と小さく笑っていた。
四条通を西へ歩き始めると、クリスマス前だからか、いつもより多くの人でごった返していた。八坂神社方面から吹く風は冷たく、でもどこか甘い香りが混じっていた。金木犀の季節は過ぎたはずなのに、蓮の胸の奥にはあの不思議な路地の記憶がよみがえる。航一の横顔をちらりと見ると、胸が小さく締め付けられた。あの裏路地の鏡で暴かれた想い――航一への好きだという想い。でも、まだ友達のままでもいい。ずっとこの距離が続いてほしい。
「なあ、みんな! 新しくオープンした大きなおもちゃ屋、知ってる? 河原町通添いのビルにできたらしいぜ。綿貫、京大の文化祭でロボットとかメカメカしたガジェットに影響受けてただろ、そういうのもあるかもだぞ。」
「えっ、マジ!? みんな、まずはそこ行こうぜ、そこ!! 俺、ロボットのおもちゃ探してたんだよ。航一、一緒に見てくれよな!」
「…まあ、別にいいけど」
情報通の拓也がスマホの画面を見ながら得意げに提案した。情報通の彼らしい早耳に、蓮は目を輝かせ、すぐに飛びつき、航一は肩をすくめながら、そんな蓮の様子を見て微かに笑った。その航一の微かな笑い声に蓮の心がじんわりと温かくなる。
スポーツマンの昴晴も、あざとい壮真も、新しく出来たおもちゃ屋は気になったのか全員が賛成し、五人は四条河原町の交差点を渡るために赤信号の前で止まった。蓮は一番後ろに並んでいて、ふとスマホでみんなの写真を撮ろうかと、スマホを取り出しディスプレイに目を向けた瞬間――世界が色を失った。
「…え?」
周囲の喧騒が忽然と消えた。祇園の街は、まるで誰もいない廃墟のように静まり返っていた。道路を走る乗用車もタクシーもバスも、いつも観光客で溢れかえる賑やかな四条通から、車も人も何もかもが忽然と消えた。店のシャッターは所々下ろされ閉店しているかのようで、遠くの八坂神社の西楼門さえも霧に包まれている。マスクをした幽霊のような人影が所々に立ち、ただ冷たい風だけが通り過ぎた。
蓮は立ち止まり周囲を見回した。仲間たちの姿がない。航一の背中も、情報通の拓也の声も、どこにもない。店頭に飾られたシクラメンの鉢植えがやけに目に付く。胸の奥がざわついた瞬間、鉢植えの陰から足元に黒い影がすり寄ってきた。あの黒猫――緑の瞳が、蓮をじっと見つめている。そして、背後から懐かしい声が響いた。
「こんなところで、また会うとはね。」
「……記憶屋の婆ちゃん。」
「この街は、もうすぐ閉ざされるよ。世界が静かになって、みんなが家に閉じこもる。君にとって、心を引きちぎられるような辛い日々が来る。学校も、友達との時間も、航一くんとの日常も……全部、変わってしまう。」
記憶屋の老女が藍色の着物を纏い立っていた。クリスマス前なのにまるで春物のような薄着の格好で、街灯の光に溶け込んでいる。老女が蓮を見つめる瞳は、幼い頃の記憶に優しく触れるような眼差しだったが、声は低く哀しげだった。黒猫が老女の着物に頬ずりをし、一声「クゥン」と甘えるように鳴いた。
「閉ざされる? 京都でも一番の繁華街のここが、誰一人いないような未来になるってことなのか? なんで??」
「もう時間が無い。君が一番大切にしている記憶――あの星型のチャームに込めた想い。あれは、辛く苦しいことを呼び寄せるだけだよ。私は……捨てて欲しかった。君を、守りたかったんだ。一番大切にしている記憶が刃になる前に。」
記憶屋の老女は蓮の質問には答えず、ただ時間が無いことを伝え、蓮をただジッと見つめる。その金色に輝く瞳が、ぼんやりと重なる。小学校六年生の時、突然いなくなった黒猫――クロミツに。日向ぼっこが大好きで、いつも蓮の膝で丸くなっていたあの黒猫。金色の瞳、しなやかな尾。記憶屋の老女がクロミツだと思い当たった時、蓮の息が止まった。
「……その瞳…クロミツ? 婆ちゃん……、クロミツなのか?」
「……ああ、そうさ。猫は長く生きると猫又になって不思議な力を得るのさ。京都は歴史を重ねた古い街だからね。不思議なものが、時々こうして人のそばに寄り添うことがある。この子は私の子で、私の代わりに君のことをずっと見守っていた。君が進路で迷うたび、想いが揺れるたび、導いてきたんだよ。」
「そっか…。突然いなくなったと思ってたけど、ずっと見守ってくれてたのか…。」
蓮は膝をつき、緑の瞳の黒猫の頭をそっと撫でた。京都の不思議さが胸に染み渡る。金木犀の香りが幻の中でふわりと漂った。
「クロミツ婆ちゃん。どうして、見守ってくれていたんだ? 」
「私の事をずっと忘れないでいてくれてただろう? 黒猫なんてどこにでもいるのに、君はあの路地まで追いかけてきた。もしかしたら私に会えるんじゃないかって。」
「本当に会えるとは思ってなかったけどさ。……でも、クロミツは家族じゃないか。大切な家族を忘れるわけない。」
「その『家族』になれないのだろう、航一くんは。まだ今なら遅くないんだよ。その想いを今ここで無かったことに。」
蓮は黙った。胸の奥にある名前を、そっと思い浮かべる。──『航一』──まっすぐな横顔。静かな声。自分を否定しない視線。
「…………辛くても苦しくても、俺、初恋を大切にしたい。航一への大好きだという気持ち。叶わなくても忘れたくない。この想いが、例え痛い記憶になっても俺の宝物なんだ。クロミツのことも、ずっと好きだったから、忘れなかった。クロミツとの思い出も俺の宝物なんだ。何も忘れたくない。」
老女――クロミツは深い溜息をついた。クロミツの子…黒猫の背を撫でながら、どこか寂しげに目を細める。
「わかってはいたけど、航一くんより私の優先順位が低いなんてねえ……まあ、仕方ないか。人間の子の初恋は、そういうものなんだね。」
「それは……そうかも。」
頬を赤く染めた蓮を見て、老女は小さく微笑み囁くように呟いた。
「マスクを付けた方が良いかもねえ? 顔を隠すためだけじゃない、心を隠すための盾として。」
次の瞬間、光が爆ぜた。世界が音を取り戻し、祇園四条の喧騒が一気に戻ってくる。信号の向こうで、みんなが振り返って蓮を待っていた。
「綿貫! ぼーっとしてると置いていくぞ?」
拓也が笑いながら手を振り、昴晴と壮真も「早く来いよー!」と呼ぶ。蓮はハッとして目を瞬き、胸の奥に残る金木犀の香りを振り払った。
「置いてくなー! 待ってくれよー!」
蓮は笑いながら走り出し、航一の横に並んだ。星型のキーホルダーが軽く揺れ、冷たい冬の風が頰を撫でる。でも心は温かかった。辛い未来が来るかもしれない。それでも、この想いは絶対に捨てはしない。
おもちゃ屋に向かう五人の足音が、河原町通に響いた。遠くで黒猫の影が一瞬だけ見え、すぐに消えた。




