6.破滅と絶望の淵
真っ黒な粘液が異形の傷穴を満たし尽くす。なおも湧き出た分が地面に滴り落ちて、粘着質で不快な音を立てた。
シリルは瞬時に長剣を引き戻すと、素早く後ろに下がりながら左手を再び異形に掲げる。詠唱を始めるや否や宙に赤い魔法陣が顕現し始める。
「“火よ 灼熱の刃 紅き騎槍と――」
しかしそれを描き終えるまえに、短い触手の束がシリルの身体を真横に薙ぎ払う。
鈍く不吉な音が耳の奥に響くと同時に視界が揺らいで、息が止まるほどの重い衝撃がシリルの全身を貫く。地面の感覚が足元から消え、内臓がひっくり返るかのような強烈な浮遊感に襲われたかと思えば、目の間の世界が大きく傾いてそのまま天地が逆転する。
受け身すら取れずに石畳に叩きつけられ、その上を勢い良く二転三転してようやく止まった。
喉の奥から生暖かい液体がせり上がって口の中に鉄錆の味が広がる。剣を持っていたはずの手は何も握っておらず、籠手が外れた手で地面を探っても砂利を掴むばかりで、地面から顔を上げても視界がぼんやりとしていて状況がよくわからない。
せめてうつ伏せになった身体を起こそうとしたが、手足にうまく力が入らなかった。しかも胸元を抉るような鋭い痛みが走って、呼吸をすることすらままならない。
「シリル!」
遠く耳鳴りの向こうから誰かの声が聞こえてくる。懸命に上体を起こして声のする方に振り向こうとした時、すっ、と細長い影がシリルの頭上を覆った。
それが何であるか理解するよりも早く、斧槍を振り被ったアウレリアがシリルの目の前へと飛び出してきた。
「このっ――!」
アウレリアの斧槍が影を切り払う。断ち切られた触手が霧散して消えていった。
そこで視界がようやく鮮明に戻る。どうやらかなりの距離を殴り飛ばされたらしく、異形の姿はさっきよりも遠くにあった。おまけにほぼ真横に薙ぎ払われたせいで、シリルと彼を助けに入ったアウレリアが位置的に孤立した形になっている。
無傷に見えた異形の様相も少し変わっていた。先ほどまで猛威を振るっていた触手が、特にサイズの大きいものが数を減らしていて、今は比較的小さく短い触手が主となって異形の周囲をうごめいている。間断のない連続攻撃は鳴りを潜め、精度と速度を重視したような、より防御的な動きに変化していた。
だがこれが弱体化の兆しだとしても現状は絶望的だ。
ジネットの火槍が赤い尾を引きながら飛翔して触手と異形を撃ち抜くも、最初は十二本あった槍は半分にまで減っていた。しかも火の投槍術をもってしても貫徹力が足りずに致命傷を――異形の身体にある水晶を砕くまでには至らず、この状況ではわずかな時間稼ぎにしかなっていない。もはや形勢の不利は覆しようもなさそうだった。
アウレリアがシリルのそばへと寄る。
「大丈夫? 立てる?」
斧槍を軽やかに操るその悠然とした振る舞いとは裏腹に、彼女は息も絶え絶えな様子で顔色も良くない。限界が近いのは明らかだった。
「なん……とか……げほっ!」
耐えきれずに血を吐き出したシリルを見て、驚いたアウレリアが手を差し出した。
「……ここが限界みたいね。早く撤退しましょう。ほら、つかまって」
アウレリアの手を掴んで立ち上がろうして、彼女の背後に触手が振り下ろされようとしているのを視界の端に捉えた。
奥歯を強く噛みしめてどうにか痛みをこらえる。シリルはとっさにアウレリアの左腰から吊るされている長剣を引き抜くと、震える脚に力を込めて石畳を蹴り出し、彼女を庇って触手へと跳びかかり切り伏せる。
振り抜いた直後、稲妻に撃たれたかのような痛みに意識が遠のいて思わず両膝をついた。剣で身体を支え、再び倒れないようにするのが精一杯だった。
「アウレリア、シリル! 二人とも無事か!?」
ジネットの援護を受けたヘルマンが二人の元へ駆けてくる。
「こっちに来たら駄目! 早く――」
アウレリアが言い終わる前に、ヘルマンが絶叫した。
「――!! 避けろ、アウレリア!」
はっ、と上空を見たアウレリアが間一髪のところで跳び退いて触手を回避する。薄く土煙が巻き上がったその中から、間髪を置かずに小さな触手の束が鋭く飛び出してきた。
不意打ち気味の素早い一撃にアウレリアの反応は遅れた。……その遅れが致命的となった。
姿勢が崩れたまま、半ば強引に斧槍で受け止めようと構えたところに触手が叩きつけられる。水平に構えた斧槍の柄がいとも容易く破壊され、勢いがまったく衰えないまま、アウレリアの右半身を激しく打ち付けた。
おぞましい不協和音が不気味なほど鮮明に響き渡る。背筋が凍るような音にシリルが後ろを振り、見てしまった。
ぐらりと、肩を粉砕されたアウレリアの身体が不自然なまでに右へ傾ぐ。あっけにとられた表情で目を見開いたまま、力が抜けて膝から崩れ落ちようとする。
空中を回転する斧槍の前端を触手が器用に掴み取り、そしてそのまま何の躊躇もなく、下からすくい上げるようにアウレリアの胸元を深々と突き上げた。それだけでは飽き足らずに彼女の身体を持ち上げ、串刺しになった姿が薄闇の空に浮かんでいく。
彼女の背中から飛び出した斧槍の切っ先が、月の光を浴びて鮮やかな赤色に輝いていた。
悲鳴はなかった。悲鳴のかわりに多量の血の塊が彼女の口から流れ出ていた。
異形は仕留めた獲物を見せびらかすようにアウレリアを空高く掲げ、ふと急に興味が失せたかのように無造作に明後日の方向へと彼女を投げ捨てた。
斧槍が胸に刺さったままアウレリアは地面へと転がり落ち、二度、三度と小さく痙攣してそのまま動かなくなった。
沈黙が訪れる。シリルが手を伸ばした時にはすべてが終わっていた。あまりにも一瞬の出来事に三人は言葉を失い、ただ愕然としながらどこか現実離れした光景を見ているしかなかった。
「――――野郎、よくもやりやがったなっ!!」
それを引き裂いたのはヘルマンの怒号だった。大盾を構えて一心不乱に異形へ突っ込んでいく姿が見えた。
「やめろヘルマン! ここは逃げるんだ!」
シリルの制止の声も怒りにかられたヘルマンには届かない。防御をかなぐり捨てて、ただ一直線に攻め立てるその姿はシリルの目には自殺行為にしか見えなかった。
この土壇場にあってもなお、傷ついた身体は満足に言う事を聞いてくれない。ならばせめて魔法で援護を、と構えたところへ触手が横薙ぎに襲いかかってくる。長剣を握り直して切り払うが力負けして、再び地面に強く打ち付けられた。
身体がバラバラになったかと錯覚して視界が暗転しそうになる。気を失わなかったのが奇跡に思えた。
偶然当たり所が良かったのか最初の時よりも衝撃は軽い。とはいえ今のシリルには致命的にも等しい一撃だった。
四肢の感覚はほとんどなくなり、喉に流れ込む血が邪魔で声もろくに出ない。しかし文字通り瀕死の状態となっても目蓋だけはどうにか開いていた。
……開いていたからこそ、残った二人の行く末も目の当たりにしてしまった。
最初に目に映ったのは、一人で異形に向かったヘルマンの姿だった。片手剣を大胆に振り回して何本もの触手を切り落とし、大盾の防護範囲を最大限に活かした体捌きで打撃を受け流している。
破れかぶれの突撃にもかかわらず、一時は異形の本体に刃を突き立てんばかり勢いで迫っているかに見えた。
それでも怒りで精彩を欠いた状態では、鬼気迫る攻撃も長続きしなかった。向こう見ずに暴れては体力の消耗も激しかったのか、ほどなくして動きが鈍くなり始める。そしてとうとう足が止まったところを複数の触手に狙われ、無防備になった足元を払われて前のめりに転倒した。
受け身を取り終えた直後、それを見計らったかのごとく大きな触手が大盾を強打し、長方形の上部が砕け飛ぶ。異形は反動で倒れこんだヘルマンの脚部を触手を使って掴み上げると、そのまま彼を大きく振り上げて軽々と投げ飛ばした。大柄な体躯が宙を舞い、はるか後ろにあった納屋の残骸に激突して木片をまき散らした。
それと同じくしてジネットの杖を振る手が止まり、茫然自失とした表情を浮かべながらじりじりと後ろへ下がっていた。
極限状態の中、ほとんど絶え間なく魔法の詠唱を続けていたこともあって、心身ともに疲労の限界に達していのは間違いない。数歩もしないうちに小刻みに震える足がもつれて、すとん、と尻餅をついて転ぶ。
転んだ拍子に杖が手から離れ落ち、腰が抜けたように後ずさるしかない彼女の元に、容赦なく触手が襲いかかった。
ジネットは動きが定まらない右手を突き出す。
「み、“水よ 氷となり 楯となり 守れ”――っ!」
氷の楯が完成したのと、楯に蜘蛛の巣状の大きな亀裂が走ったのは同じタイミングだった。
防御が間に合ってわずかに安堵した途端、楯を避けて伸びてきた細い触手がジネットの首に巻きついた。反応する間もなく喉元を強く絞め上げられ、彼女は驚愕と苦悶の表情を浮かべながら触手を解こうともがくが、抵抗もむなしく身体は空中へと吊り上げられていく。
首吊りも同然となって意識が徐々に薄れていくなか、半ば錯乱しながらも、しかしわずかに残った理性に従ってジネットは腰に差した短剣を逆手に引き抜いた。
弱々しく切っ先を振り上げて触手に何度も振り下ろす。首を絞める力がより一層強まり、ジネットの全身から力が抜けたのと同時に、短剣の刃が触手を引き裂いた。ジネットは糸が切れた人形のように高所から落下して、やがて雑草だらけの生垣に墜落して見えなくなった。
再び沈黙が訪れた。静寂に満ちた空間の中では、遠い木々の葉音でさえやけに耳障りに聞こえてくる。そこに混ざる異質な水音もまた同じ。
ゆらゆらと不規則に揺れ動く異形を強く睨みつけながら、シリルは己の唇をさらに強く噛んだ。
途方もない無力感と怒りと失意の念、諦観、絶望、悲壮といったありとあらゆる負の感情が湧き上がって混ざり合う。
それが異形の漆黒よりもなお濃い闇となってシリルの胸中を渦巻いていった途端……いきなりそれらすべての感情をまとめて塗り潰すほどの激しい倦怠感に襲われ、急速に意識が遠のいて行くのを感じた。
痛みによる苦痛の末とは違う、まるで底なし沼に沈み込むような感覚だった。誰かに引きずり込まれるようにゆっくりと、しかし確実に水底へと向かってゆく。体温が徐々に上がっていくにつれて目蓋が勝手に落ち、すさまじい睡魔が頭の芯を揺らして思考の糸が弛緩する。
どこか心地よささえ感じる睡魔に身を委ねかけて、シリルはさっきまで指先一つさえ動かなかった手足の感覚が、にわかに戻り始めていることに気がつく。さっきよりも深く息を吸い込めることに気がつく。
泥にまみれて重く沈む意識とは裏腹に、深手を負って動かないはずの身体が熱を持ち、ほんの少しずつ軽くなって活力を取り戻す、ひどく矛盾した感覚。
シリルはその感覚を嫌というほど知っている。だからこそ沼の底へと落ちないように必死に抗い続けていた。
まだ、生きている。
心の中でそう強く念じたとき、べしゃりと、液体を踏む濡れた音が間近から聞こえてきた。




