果ての海より来たるもの(1)
※ ※
――カリカリ。カリカリカリ。
ペン先から流れ出たインクが、淡々と写字を記していく。
――カリカリ。カリカリカリ。
羽ペンが軋み、羊皮紙の表面を滑る感覚が手から伝わる。
「……ブラザー・ロガラッハ」
不意に"自分の名"を呼ばれる声が響いて、音も聞こえないほどの没頭から引き戻される。
周囲の風景が、遠い潮のさざめきが、暗く冷たい部屋の空気が、磯と黴の混じった土壁の匂いが、戻ってくる。
「ファーハル師がお呼びです。村長と話をするので同行してください」
僧衣の若い男が"私"に呼びかける。
"私"――ブラザー・ロガラッハと呼ばれた男は、「わかった。すぐに行く」と言って、携帯用の筆記具一式を片付け始めた。
"ロガラッハ"の動きはエイダンの意思ではない。
すぐにわかった。
これは……これは。
写本に封じられた物語の断片であり、「写本の悪魔」の記憶なのだ。
※
――神が遠い北の孤島からの巡礼者を、高僧ファーハルの元へ導いたのは夏の終わりのことである。
頭の中に文字が、その意味するもの自体が直接書き込まれるように浮かんでいく。
――翠玉の如き「緑と学僧の島」。その中心たるダロウの学問所でも、高僧ファーハルの有徳は知られていた。いくつもの辺境に神の家をもたらし、時に悪霊と対峙し、退けた逸話をもって。
視界の端の暗がりに「文字の虫」達が像を作る。
それは一瞬、写本の挿絵のような平面の絵となったかと思うと、次の瞬間には人間の姿に変じて動き出す。文字の記す「場面」を再現しているのだ。
『ああ……お坊さま。イオウアのファーハルとは貴方か』
ぼろを纏った男が、僧衣を着た老人の腕に抱かれている。
ぼろの男の黒ずんだ顔は窶れ、傷だらけの手足は枯れ木の如く痩せさらばえて、長い苦難の旅の果てに老僧の元に辿り着いたことを示していた。彼の命の灯り火は既にかぼそく、遠からず消えようとしている。
『いかにも』
老僧は答えた。
ぼろの男は重ねて訊いた。
『アラバの山々にて悪霊を鎮め、イシュトの入り江にて黒きユダの海豹を退けた僧侶とは、貴方か』
『主のご意志と助力に拠って』
老僧は答えた。
ぼろの男はひび割れた手で老僧の腕をひしと掴んだ。
『おお、イオウアのファーハルよ。どうか我が願いをお聞き入れください。私はギャラヴの子コンガル。アラバの遥か北、暗い海と慈悲なき波頭にて隔てられた<奪われた島>から来た者です』
男は震える声で続けた。
『我が故郷は聖パトリキウスの時代に智慧をもたらされながらも、いまだ主の光に遠く、神の家すら持たぬ不毛の地。どうか我が郷里に神の家をもたらし、我が同胞たちを悪しく呪われた霊からお救い下さい』
ぼろの男は懐から焦げた木製の十字架を取り出し、骨と皮の手指に食い込むほど強く握りしめた。
『それをお願いするために、私はこの地へ参ったのです。どうか……どうか…………』
その言葉を最後に、男の体からあらゆる力が抜け、腕がだらりと垂れさがった。




