表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
渦巻く禍なる緋海の書  作者: 玖里丹
2章 果ての海より来たるもの
PR
9/12

果ての海より来たるもの(1)

※ ※


――カリカリ。カリカリカリ。


ペン先から流れ出たインクが、淡々と写字スクリプトを記していく。


――カリカリ。カリカリカリ。


羽ペンが軋み、羊皮紙の表面を滑る感覚が手から伝わる。


「……ブラザー・ロガラッハ」


不意に"自分の名"を呼ばれる声が響いて、音も聞こえないほどの没頭から引き戻される。

周囲の風景が、遠い潮のさざめきが、暗く冷たい部屋の空気が、磯と黴の混じった土壁の匂いが、戻ってくる。


「ファーハル師がお呼びです。村長と話をするので同行してください」


僧衣の若い男が"私"に呼びかける。

"私"――ブラザー・ロガラッハと呼ばれた男は、「わかった。すぐに行く」と言って、携帯用の筆記具一式を片付け始めた。


"ロガラッハ"の動きはエイダンの意思ではない。


すぐにわかった。


これは……これは。

写本に封じられた物語の断片であり、「写本の悪魔」の記憶なのだ。



――神が遠い北の孤島からの巡礼者を、高僧ファーハルの元へ導いたのは夏の終わりのことである。


頭の中に文字スクリプトが、その意味するもの自体が直接書き込まれるように浮かんでいく。


――翠玉の如き「緑と学僧の島」。その中心たるダロウの学問所でも、高僧ファーハルの有徳は知られていた。いくつもの辺境に神の家をもたらし、時に悪霊と対峙し、退けた逸話をもって。



視界の端の暗がりに「文字の虫」達が像を作る。

それは一瞬、写本の挿絵のような平面の絵となったかと思うと、次の瞬間には人間の姿に変じて動き出す。文字スクリプトの記す「場面」を再現しているのだ。



『ああ……お坊さま。イオウアのファーハルとは貴方か』


ぼろを纏った男が、僧衣を着た老人の腕に抱かれている。

ぼろの男の黒ずんだ顔は窶れ、傷だらけの手足は枯れ木の如く痩せさらばえて、長い苦難の旅の果てに老僧の元に辿り着いたことを示していた。彼の命の灯り火は既にかぼそく、遠からず消えようとしている。


『いかにも』


老僧は答えた。

ぼろの男は重ねて訊いた。


『アラバの山々にて悪霊を鎮め、イシュトの入り江にて黒きユダの海豹あざらしを退けた僧侶とは、貴方か』


『主のご意志と助力に拠って』


老僧は答えた。

ぼろの男はひび割れた手で老僧の腕をひしと掴んだ。


『おお、イオウアのファーハルよ。どうか我が願いをお聞き入れください。私はギャラヴの子コンガル。アラバの遥か北、暗い海と慈悲なき波頭にて隔てられた<奪われた島>から来た者です』


男は震える声で続けた。


『我が故郷は聖パトリキウスの時代に智慧をもたらされながらも、いまだ主の光に遠く、神の家すら持たぬ不毛の地。どうか我が郷里に神の家をもたらし、我が同胞たちを悪しく呪われた霊からお救い下さい』


ぼろの男は懐から焦げた木製の十字架を取り出し、骨と皮の手指に食い込むほど強く握りしめた。


『それをお願いするために、私はこの地へ参ったのです。どうか……どうか…………』


その言葉を最後に、男の体からあらゆる力が抜け、腕がだらりと垂れさがった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ