果ての海より来たるもの(2)
――「高僧ファーハルは、郷里に神の光をもたらすため命を賭した巡礼者に感じ入り、その願いを聞き入れることにした。3人の弟子たちを伴って、荒く渦巻く暗い海を越え、<奪われた島>と呼ばれる地に赴いたのだ。」
視界の中空に文字が記されると同時に「場面」の幻視は消え、後には元の暗がりだけが残った。
――パラパラパラ。
耳元で、あるいは頭の内側で。
風にページが捲れるような音が聞こえた。
※
「ロガラッハ、海を見ているのですか?」
若い男の声に振り返ると、もうそこは先ほど写字を行っていた部屋ではなく、「文字の虫」の幻視が浮かんだ暗がりもなかった。
灰色の空の下、強い潮風が吹く海辺の丘陵。
花崗岩の荒野を背に、先ほど声をかけてきたのと同じ若い修道士がこちらに目を向けていた。
「場面」が変わったのだ。
ロガラッハと呼ばれた男――今追体験している、この記憶の持ち主が答える。
「そうだ、ベナッハ。写字の後はできるだけ遠くを見るようにしている。こうすると目の痛みが軽くなるのさ」
ロガラッハの知識が流れ込んでくる。
目の前の青年はブラザー・ベナッハ。ロガラッハより数歳若い彼は、ファーハル師と共に島に来た弟子たちの中で最年少だった。訛りの強い北方の島々の言葉をある程度理解できるため、通訳として伴われていた。
ダロウの学問所では薬草園の管理を担当しており、インクの製作に茨を用いるロガラッハとは言葉を交わす機会が多い。ベナッハにとっても、年の近いロガラッハは話しやすいのだろう。
「それで、村長と話すということだったが……こんな辺鄙な場所でか?」
「この先の岬に、島の民たちのための祈祷所があるそうなんです。かつて神の智慧を得て旧い信仰を捨てた時に、異教の祭壇だった場所を壊して、祈りの場に改修したのだとか」
話しているうちに、簡素な石積みの小屋に到着した。花崗岩を切り出した石材を土塀で固めた造りは、痩せて木が少ない北方の島々ではよく見られる造りだ。入り口の上部には、石材に十字が彫られている。
「……それはきっと、我が息子でごぜえます。お坊さま」
村長がファーハル師に語る声が聴こえて来た。訛りは強いものの、村長は通訳無しで会話ができるほどにはこちらの言葉が話せる。
「島を飛び出して、もう帰ってこねえもんと思ってたが……そうですか、お坊さまにそのようなことをお頼みして……」
息子の最期を知った老人は、声を詰まらせるようにして目頭を抑えていた。傍らに立つ壮年の男が、支えるように彼の肩に手を置いた。
「この島は、聖パトリキウスの時代には教えがもたらされていたと聞き及んでいます。しかし、海賊たち(ヴァイキング)の略奪で教会はすべからく破壊され、以来島は神の家を持たぬまま、民のみで祈りを捧げてきたと」
ゆえに、<奪われた島>と呼ばれてきたのだ。
「だからこそ、改めてこの島に祈りの場となる神の家を築きたいのです。ご子息が命を懸けて望まれたように」
穏やかに語る高僧の声に、村長は深くうなずく。
――にも拘らず、彼の返答は意外なものだった。
「とても、とても……ありがてえことです。恐れ多いことですだ。しかし……」
しわがれた声が深く沈む。
「わしら、相応しくねえです。この島に教会を建ててくださるなんてのは、相応しくねえんです」
ファーハル師の眉が訝しげに動き、傍らに従っていたブラザー・リーゴーンが困惑したように顔を曇らせる。
「わしら、ほんとにうれしいです。偉えお坊さまがわざわざ来て下すって、お祈りを唱えてくだすって。けんど……相応しくねえんです。若え連中も漁だの羊の世話だので、あんまり手を割けねえし、それに……相応しくねえんです」
村長は通訳なしで意思疎通ができたが、その語彙は決して多くない。
訛りの強い、聞き取りづらい声でただ「相応しくねえです」と繰り返す。
「来て下すっただけで、わしらのために祈ってくださるってだけで、十分なんです。明日、村の連中を集めて、お坊さまがたのお話をみんなで聞ければ、これほどうれしいこたぁねえ。それで十分なんです」
村長はの声は柔らかく、腰が低く、深い感謝に満ち――しかし明確な「拒絶」の意思を示していた。
「……これから冬に向かって海が荒れます。島には本当に何にもなくて申し訳ねえですけんど、旅のお疲れが取れなすったら、南へ向かう海域に詳しい者に送らせますだ。この島の海は、来る時より帰る時の方が危ねえですもんで」




