写本の悪魔(5)
『あの娘は持ち直したようだな?』
写本の悪魔は書庫の書見台に腰かけ、上機嫌で言った。
傍らには数冊の本が置かれている。
『役に立ったようで嬉しいよ。というより、お前がきちんと知識を役立ててくれたことが。使われない知識は読まれることのない本と同じ、書庫の棚で朽ちるのを待つばかりだからな』
エイダンは堅持していた沈黙を破り、苦々しく返した。
「……勘違いするな、お前を信用したわけじゃない。正直、今も少し後悔している。悪魔はまず見せかけの安寧を与え、その後に一層深い地獄への穴を用意する。私がしたことは――」
『そうだな。まずは信用させるために真実有用な知識で役に立ち、信頼を得てから目的を果たす。いかにも悪魔がしそうな立ち回りだ。お前が警戒するのも無理はない。だがそう穿って見るな。俺はただお前へ恩を返しただけだ』
エイダンは困惑した。
「恩だと?」
『そうだ。……さすが中央島から来た学僧だな。伝令船を通じて書庫の蔵書を増やしたのはお前だろう?おかげで退屈凌ぎが増えた』
写本の悪魔は楽しそうに傍らに置いた本を手に取り、パラパラとめくった。
修道院に保管されてきた中世の装飾写本ではなく、中央島経由で持ち込まれた新しい書物の類である。
『活版印刷といったか。この島では触れるべくもないが、中央島は大陸の技術が入るのも早いな。まったく、俺が生きた時代は写本一つを村と交換し、複写ひとつで戦争が起きたというのに、世界は変わったものだ』
その言葉にエイダンは思わず言った。
「……かつて人間だったというのは」
『本当さ。俺は嘘はつかない。神の愛の実践とは、隣人への真実と、偽りなき忠誠だろう?だからこそ、裏切りは許されざる罪なのさ。『裏切り者には死を』。そうだろう、エイダン?』
エイダンは挑発に無言で返した。
写本の悪魔は肩を竦める。
『おっと、気に障ったなら悪かったな。――だがまあ、少なくともあのマリーとかいう娘の療法について、お前が心配するような俺の"裏切り"は無いさ。アレは食事の偏りによるものなんだ。詳しい原理までは明確じゃないが、経験則として魚の肝油と海藻に薬理があることは知っていたんでな。クラウディウス・ガレヌスの著作にも似たような記述があったはずだ。脚の痛みと皮膚炎はじきに良くなるだろう。気鬱については知らんがね』
気鬱――エイダンはふと、許嫁を失ったマリーについての周囲の言葉を思い出した。
マリーの友人たちは、マリーはクイヴィンを怖れていたと語った。
一方でマリーの父親は、マリーはクイヴィンの死を知ってひどく落ち込んでいたと言っていた。
マリーにとってクイヴィンは……。
いや、怖れながら愛するということも、恋しながら恐れるということも、十分にありうるのだ。人の心のひだは複雑で、どちらに割り切れるというものでもない。
特に、その相手が若くして、人生を断ち切られるように戦死したとあれば。
『ところでエイダン。お前が俺を燃やす件についてだが、条件によっては受け入れてやってもいい』
エイダンは不意の申し出に虚を突かれた。写本の悪魔は言葉を続ける。
『お前、助祭には俺の実在を話していないだろう? 賢明な判断だ。話せば助祭は確認に来るし、そうすればマリーの治療法は「悪魔を通じて得た知識」だと明らかになる。俺は嘘はつかないからな、訊かれれば素直に答えるだろう』
「……助祭様がお前の話を聞いたところで、悪魔の言葉を信じると思うか?」
『宗教者同士に疑いの種を撒いて決裂させる、そういう手管だと考えるだろうな。……しかしだエイダン、ここにひとつ疑問がある。マリーという娘と同じ症状は、ふた月前に死んだ娘にも出ていたそうだな? なぜお前は前回は思い出さなかったのに、今回は治療法を知っていたんだ?それも焚書を命じられ、お前達の言う"悪魔"と出会った、直後のタイミングで』
「貴様……!」
やはり、悪魔は悪魔だ。
口では警戒しながら、どこかで親しみを感じ始めていた自分を呪う。
『そう気色ばむなよ。お前が俺を燃やせば問題ないだろう。そして条件を飲むなら大人しく燃やされてやると言っているんだ』
「……。……それで、条件とは何だ?」
条件の提示。悪魔との取引。
自分が望ましくない方向へと誘導されている自覚はある。
『そう睨んでくれるな。俺はただ、“読んでほしい”だけなんだ』
そして写本の悪魔は静かに語り始めた。




