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渦巻く禍なる緋海の書  作者: 玖里丹
1章 呪われた装飾写本
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写本の悪魔(4)


エイダンは息を切らしながら修道院の薬草庫に駆け込んだ。


部屋の梁には、夏に摘んだ薬草が束ねられて吊るされている。

セイヨウオトギリソウ、柳の樹皮、乾いた根。

壁際の棚には陶器の壺が並び、「鎮痛」「止血」「鎮静」などと記されていた。


「痛み止め……鎮静……柳皮とオトギリソウ……」


棚の奥に押し込まれた壺のラベルを指でなぞり、

ようやく目的のものを見つけた時、誰もいないはずの薬草庫に声が落ちてきた。


『そんなものであの娘は助からんぞ』


写本の悪魔の声だった。

弾かれたように振り返ると、あの修道士姿の悪魔が、カサカサと蠢く「文字」によって薄暗がりの中に形を成したところだった。


『語弊があったな。申し訳程度の痛み止めとしてなら多少の効果はあるかもしれん。だがあのまま苦しんで死ぬのは変えられない』


悪魔の声は冷静で淡々としていた。神の子の苦しみを煽ったり面白がっているような残忍な響きはない。


薬壺を抱えたエイダンは無視して立ち去ろうとした。悪魔と話すべきではない。

通路を足早に駆ける時、すれ違いざまに悪魔が言った。


『海藻とタラの肝を食わせろ。食事が難しければ煮汁でもいい』


エイダンは返事をしなかった。



マリーの家は典型的なこの島の漁師だった。狭く、炉の煤で薄黒く染まった壁。設えられた最低限の家具は、湿った木と生臭い黴の匂いがした。


藁の上にボロ布が敷かれただけの寝台に横たわるマリーは、助祭が与えた薬草と水で多少の安静を得ているものの、その息遣いは依然として浅く速い。痩せこけた腕には玉のような冷汗が浮き、苦痛に顔を歪めたまま微かに呻いている。


「ああマリー……辛抱して……」


老いた母は娘の枕元に跪き、枯れ枝のような手で何度もその額を拭った。彼女の声は涙で掠れており、嗚咽交じりの祈りが絶え間なく続く。


「ああ主よ……どうかこの哀れな娘をお救い下さい……どんな罪の報いであれ……罰なら私にお与え下さい……!」


助祭は険しい表情で腕を組み、マリーの病状を見ている。

エイダンは薬壺を手に部屋の隅に佇んでいた。時折窓外に視線を投げると、不安げに立ち尽くす村人たちの影が見える。彼らもまた娘を心配し、しかしどうすることもできず成り行きを見守るしかないのだ。


「……眠ったようです。少し、痛みは和らいだようですが」


助祭が低く呟く。母親の心を乱さないよう、努めて落ち着いた声音で話しているが、その先を言わない意味はエイダンにも分かっていた。

痛み止めはあくまでその場凌ぎでしかなく、この娘を死へいざなう手から救うことはできないのだ。エイダン達にできることといえば、ただ祈り、主の助力を請うことだけだった。


その時だった。

けたたましい足音と同時に、ガラガラと戸板が開いた。


「おい!マリーが倒れたってのは本当か!?」


飛び込んできたのはマリーの父親だった。潮風に灼けた顔を今は蒼白にして、骨ばった大きな手は微かに震えている。

今日は朝から漁に出ていて、マリーが倒れた時には不在だった。

若者を戦争に取られたこの島では稼ぎ手が足りない。特に漁師が稼ぐことができるのは「海が許した日」だけ。娘の許嫁の葬儀があろうが、「獲れる時に獲る」必要があるのだ。

――あるいはこの先、実の娘の葬儀があったとしても。


「う、うう……あんた……マリーが、マリーが……」


母親はみなまで言えずに泣き崩れる。マリーの父親は寝台で呻く娘と啜り泣く妻、物憂く佇む助祭の姿を見て息を詰まらせた。


「マリー……こないだ許嫁を亡くしたばかりだってのに……」


往来での諍いはまだ耳に入っていないのだろう。

父親はただただ悲愴な顔で娘の寝台へ駆け寄る。震える手で娘の痩せた腕を取り、頬を寄せた。


「ああ、せっかく久々の大漁だってのに……。クイヴィンが死んだと知ってずっと落ち込んでたから、お前の好きなタラとカブのスープをたらふく食わせてやろうと思ってたのに……」


タラ――その単語が、エイダンの胸の奥を冷たく撫でた。


『海藻とタラの肝を食わせろ。食事が難しければ煮汁でもいい』


写本の悪魔の言葉がよぎる。


悪魔の罠かもしれない。

悪魔とは邪悪なものだ。その言葉を信じれば、あるいはもっと彼女を苦しませる結果になるかもしれない。病状を悪化させ、さらなる苦痛を呼ぶ罠を、涼しい顔で仕掛けていないとなぜ言い切れる。


自分のすべきことは、彼女と彼女の家族のために、ただ一心に神に祈ることではないのか。


だが――


「ううう……っ!!」

「マリー!?ああ神よ、どうか……」


マリーの顔が再び苦痛に歪み、母親が悲鳴じみた祈りを捧げる。

痛み止めの薬草だけでは限界があるのだ。


「……助祭様」


エイダンは佇む助祭に耳打ちした。


「中央島で教育を受けていた頃、このような症状に対して、タラの肝や内臓が効果を現わすことがあると聞いたことがあります」

「タラの内臓……」


助祭は怪訝な顔をした。


「この島では内臓は食しませんが……確かに、魚の肝の油を薬理に用いる地域もあると聞き及んでいます」

「私の聞いたところでは、海藻とタラの肝を煮た煮汁を飲ませるだけでも効果があるといいます。新鮮なタラが大量に手元にあるのなら、試してみる価値はあるかと」


エイダンの献言に、助祭はマリーや彼女の両親を見ながらしばし考えた後、「わかりました」と短く答えた。

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