写本の悪魔(3)
エイダンは一度、修道院書庫を出た。
まさか写本の悪魔が実在するとは思わず、あのまま閉ざされた書庫で顔を突き合わせて会話し続ければ、取り込まれかねないと思ったからだ。
『いいのか?目を離している隙に逃げてしまうかもしれんぞ?』
部屋を出ようとするエイダンに悪魔は意地悪く笑いかけたが、思考や相談の猶予を与えず、会話の卓から逃さないことで判断を誤らせるのは籠絡の常套手段だ。悪魔との対面が初めてのエイダンにも、それはわかった。
写本の悪魔はエイダンが自身を燃やすために来たことを知っていた。逃げるというならとっくにそうしていたはずだ。
灰色の空の下、エイダンは深く息をつく。
霧を含んだ空気は湿って冷たく、肺の中を下へ下へと落ちていくような気がした。
※
助祭の姿を探して村へ下りると、騒がしい人だかりに気づいた。
女の涙声と男たちが不安げに囁く声が入り混じり、ただごとではないと察せられる。
「何かあったのですか?」
エイダンが人垣をかき分け近づくと、地面に敷かれた粗末な布の上に若い娘が仰向けに倒れていた。痩せた腕は空を掴むように伸ばされ、青白い額には脂汗が浮いている。すぐ隣では母親が取り乱し、娘の名を絶叫するように呼びかけていた。
「マリー!マリー!ああ主よ……娘をお救い下さい……!」
倒れた娘――マリーと呼ばれた少女は十代後半ほどだったか。村の東に住む漁師夫婦の娘だ。
素朴ながら整えられた栗色の髪が汗で額に貼りつき、可憐な顔が今は苦悶と恐怖に歪んでいる。脚に激しい痛みを感じているらしく、膝を曲げたり伸ばしたりしながら断続的に「痛い、痛いぃっ……!」と掠れた悲鳴を漏らしていた。
助祭は取り乱す母親を宥め、マリーの様子を見ながら経緯を聞き出していた。
「ああ、助祭様……マリーをお助け下さい……!クイヴィンの棺に花を手向けに行って……突然苦しみ出して倒れたんです……!」
クイヴィン――春前に戦線へ志願し、先日《本国》軍との戦いで戦死した若者の名だった。
若手の漁師の一人で、寡黙だが実直な青年と聞いている。
「葬儀が終わった後のことです。みな帰ろうとしているところで、私たちもそうしようと声をかけたのですが、マリーはお墓の前から動かなくて……そのまま倒れて……」
マリーはクイヴィンの許嫁だった。戦争がなければ結婚式も近いと聞いていた二人だ。
苦しみ、悶え続けるマリー。その様子に見覚えがある、と村人の一人が口を開く。
「この様子……ふた月前に死んだエイリーにそっくりだ……!」
「そうだ……あの娘もこんな風に脚を痛がって苦しんでいた……!まるで、両脚を何かに引き千切られそうになっているみたいに……!」
「よもや、悪霊の仕業ではあるまいな……悪霊が村を徘徊しているのでは……?」
悪霊。その言葉に反応したように、マリーと親しかったローシェという娘がぼそりと呟いた。
「脚を、引かれて……。まさか、クイヴィンがマリーを連れていこうとしてるんじゃ…………」
間の悪いことに、その恐怖を孕んだ呟きは喧騒の中でもことさらに響いてしまった。
「なんということを……!」
低いが鋭い声が響いた。クイヴィンの父親だった。
灼けて潮風に晒された腕を震わせながら前に出る。
「息子は神と故郷のために殉じた勇士だ!それを……冥途へ引きずり込む悪霊のように言うつもりか!?」
クイヴィンの親族と思しき者たちが次々と同意の声を上げる。
「そうだ!クイヴィンは神の戦士だぞ!」
「クイヴィンがそんなことをするものか!」
しかし、ローシェは謝るでもなく彼らをキッと睨み返す。
「だって……!クイヴィンの執着の仕方は普通じゃなかった!あの子怖がってたもの!『どこへ行ったか、誰と話したかみんな聞き出される』『どこへ行っても彼の視線を感じる』って!」
「そ、そうだ!俺なんて、商いでマリーと少し話しただけで因縁つけられてブン殴られた!」
「ローシェの言う通りよ!祭りの後、マリー怖がって泣いてたわ!『少し他の男の子と踊っただけで凄まれた』って!『他の男の所に行くような脚なら切り落としてやる』って脅されたって!」
「何を馬鹿な……!!」
今にも殴り合いになりそうな緊迫した空気が人垣全体に広がり、助祭は即座に両手を大きく振って制止した。
「皆さん!ここで言い争っている場合ではありません!今は何よりもマリーの命です!」
助祭の凛とした声が騒然とする場を静める。
「このまま往来に野ざらしではまずい。家の寝台に運びたいところですが、下手に動かそうとすると激痛が走るようです。――エイダン、修道院に痛み止めの薬草があります。あれを取ってきてください」
人垣の中にエイダンの姿を認めた助祭は指示を出し、続けて人々にも声をかける。
「マリーの親族の方以外は家に戻り、彼女のために祈って下さい!今は試練の時なのです。神の子同士で争ってはなりません!」




