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渦巻く禍なる緋海の書  作者: 玖里丹
1章 呪われた装飾写本
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写本の悪魔(1)

エイダンはこの地の――北の孤島の出身ではなかった。


《島》の中心たる中央島に生まれ、学僧として教育と修練を積んだ後に、この北の辺境に派遣されてきたのだ。

そしてやっと生活にも慣れてきたと思っていた矢先、《島》と《本国》の間で争いが起こった。



きっかけは《本国》の政変だった。しかし火種が大火と化したのは、《島》に泥炭ピートのように積み重ねられてきた怨念ゆえだ。


《本国》の圧政の下、長く屈従と搾取に喘いできた《島》。

憎悪の泥土は百年にわたって蓄積され、反乱の炎が広がるのは必然とも思えた。


先祖が耕してきた大地は取り上げられ、追われた先の荒れ地でさえ小作として生きることしか許されぬ。

「改革」と称して聖堂を打ち壊され、古くからの信仰は唾と汚穢とを吐き掛けられ。

そして日々の食事さえままならぬほどの、理不尽な重税――生きるための最低限の蓄えされ許されず、足りなければ女子供さえ鞭打たれる。背中の皮全てが剝がれるほど"罰"を受け、苦悶の中で息絶えた者も数知れない。


それらすべてが、限界に達したのだ。


反乱の火は怒濤のごとき勢いで四方へ広がった。

農夫の鎌が刈るのはもはや風にそよぐ麦の穂ではなく、漁師が小舟に秘めるのは漁網でなく弾を込めた古鉄砲となった。


それはこの北の諸島でも同じだった。


『《島》の息子たちよ!!今こそ立ち上がり、父祖の土地、血と誇りを取り戻すのだ!!』


あの冬の日、燃えるような夕陽を背に高らかに謳いあげた反乱軍の男の声を思い出す。


若者は瞳に爛々と闘志の光を湛え、血潮に滾る誇りと憤怒で体を震わせた。

男たちは先を争うように戦線へ志願し、女たちは目を潤ませ、しかし愛する者たちの雄姿に熱い誇りを覚えて見送った。


この島の誰もが、長い屈従と閉塞を破る号砲に奮い立ったのだ。


あれから1年余り。

始めは優勢であった戦況も徐々に膠着し、やがて物量に勝る《本国》が逆転するようになった。


期待していた"旧教の盟主"たる帝国は自領の叛乱に手を焼き、重い腰が動いた時には《本国》の優勢は決定的となっていた。

そして、かつて無敵と謳われた帝国の艦隊も《本国》の船団に敗れ、反攻のか細い光も絶えたのだ。



エイダンは燭台の揺れる光を頼りに、書庫の螺旋階段を上った。

"鎖付き"を保管している閉鎖書架は、上部の隔離された一角にある。


ガチャリ、と鍵を回すと、四方を書棚に囲まれた空間が現れた。空気が流れぬ部屋は朽ちた時間までもが淀んでいるようで、暗がりの中にインクと羊皮紙の臭いが滞留している。思っていたより広い。壁際には書見台があり、どこか、純粋な書庫というよりは――人間の居室じみた印象を受けた。


閉鎖書架。エイダンが修道院書庫上層のその部屋に足を踏み入れるのは、赴任して初めてのことだった。


修道院の写本はほとんどがラテン語、つまり教育を受けた聖職者と知識人の世界のものだ。

この島の住民は貧しい漁民と農民が主で、ほぼ全てが文盲である。よって閉鎖するまでもなく、それらを手に取れたとしても「極めて高価なインクと羊皮紙の塊」以上の意味は持たない。それでもただ盗難を防ぐ以上の――閉鎖というより"封印"に近い扱いを窺がわせる異様な空気が、そこには漂っていた。


「これか」


焚書を命じられた"鎖付き"は、奥にある石櫃の中だ。

助祭から与えられた二つ目の鍵を使って錠を開けると、精緻な文様とカリグラフで彩られた、古びた装飾写本が仕舞われていた。


「――?」


表紙に記されているのはラテン語ではない。


わずかながら、この地域固有の古語を音写して書かれた写本も存在するとは聞いていたが、"鎖付き"もその類であったろうか。


少しだけ、学僧としての興味を引かれた。しかしこれは禁書なのだ。開くことは許されない。


『賢明だな。だが学僧としては面白みがない。忌み物もまた主の造られた世界の一部だとは考えないのか?』


どこからか聞こえた声と共に、手にしていた写本が俄かに熱を持つ。


次の瞬間には、閉じた羊皮紙の間からわらわらと無数の黒い虫が涌きだしていた。

蠢く波のような虫の群れは、写本を持つエイダンの手から零れるように床へ落ちていく。


「う、ああ……っ!!!」


恐怖と驚愕で思わず写本を取り落とす。


『おいおい、もう少し扱いに気を付けてくれよ。時代が違えば写本一つで村が買えたんだ』


半ば呆れたような、半ばは愉快そうな男の声。


床に落ちた写本を囲むように、頁からとめどなく涌き続ける無数の黒い虫たちが群がる。

それはひどく密度の高い蚊柱や、数十、数百の蛇が絡み合う蛇玉じみて、悍ましく蠢きながら集束し、徐々に形を変えていく。


いや、虫ではない。

エイダンは気づいた。


文字だ。


写本から「文字」が意志持つ虫のように群れを成して溢れ、蠢き、集合し、今目の前で何かの形を成そうとしているのだ。


『この姿になるのはいつぶりだったろうな』


"それ"はやがて人の形となって、顔や手であるべき部分は肉と肌との色になった。

燭台の明かりに沈む樫色の髪、灰色の瞳。


そして神のしもべと同じ、黒衣の修道服。


『初めまして、ブラザー・エイダン。俺はこの写本に封じられた物語に仕えるものだ』



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