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波の上の酒蔵  作者: 曽根崎令
「勝つと思うな思えば負けよ」昭和的な言葉の意味が刺さる時
17/20

勝者の影

朝の海は、嘘みたいに穏やかだった。


甲板には、昨夜の喧騒の名残だけが、薄く残っている。

片付けられた照明。

畳まれたレッドカーペット。

空になったグラス。


勝利の夜は、もう終わっていた。


だが。


悠司のスマートフォンは、朝から止まらなかった。


通知。

メッセージ。

知らない番号からの着信。


「……何だ、これ……」


ミアが、コーヒーを片手に覗き込む。


「……もう、世界に出てるわね」


画面には、ニュースサイト。

動画サイト。

SNS。


見出しが、踊っている。


『無名の酒が、超VIPを制す』

『香港の洋上で起きた“奇跡の逆転”』

『ブライス敗北。新星、現る』


そこまでは、いい。


問題は、その下だった。


『だが、勝者の酒には“疑惑”も』

『テイスティング直前の“トラブル”とは』

『本当に、フェアな勝負だったのか?』


悠司は、眉をひそめる。


「……疑惑?」


記事を開く。


そこには、あの時の騒ぎの写真。


タンク。

スタッフ。

連行される、赤い衣装の男。


そして。


「サボタージュ騒動の当事者は、勝者側の関係者だった」


そんな一文。


「……」


ミアが、低い声で言う。


「……切り取り方が、最悪ね」


さらに、別の記事。


『“鉄の味”騒動。

仕込み直しが間に合わず、急きょ別の酒に差し替え?』


『事前に用意されていた“隠し玉”では、という声も』


悠司は、スマホを握る手に、力が入る。


「……事実は、全部、逆だ」


「分かってる。でも……」


ミアは、別の画面を見せる。


そこには、短い動画。


倉庫の監視映像の一部。

夜。

フードを被った人影。


そして、切り取られたテロップ。


『勝者側のスタッフ、深夜にタンクへ?』


「……これ……」


「編集されてる。前後、全部切られてる」


ミアは、唇を噛む。


「……誰かが、“物語”を作ってる」


その頃。


ブライスは、朝の光の中で、コーヒーを飲んでいた。


タブレットの画面には、ニュースとSNSのタイムライン。


彼は、静かに、それを眺めている。


「……面白い」


側近が、慎重に言う。


「世論が、少しずつ……」


「いい流れだ」


ブライスは、微笑む。


「“勝った”という事実は、変えられない。

でも、“どう勝ったか”は、いくらでも塗り替えられる」


彼は、画面をスクロールする。


「人は、味より、物語を信じる」


悠司は、船内の廊下を歩いていた。


すれ違うスタッフの視線が、どこか、よそよそしい。


「……おめでとうございます」


そう言われても、どこか、距離がある。


(……もう、“英雄”じゃない)


(……“疑惑の人”だ)


そんな空気。


ミアが、低く言う。


「……このまま放っておくと、まずい」


「……分かってる」


だが、どうする?


証拠はある。

真実もある。


だが。


「……真実は、いつも……一番、遅い」


悠司は、そう呟いた。


部屋に戻ると、ミアが言った。


「……ブライスよ。これは」


「……ああ」


悠司は、窓の外の海を見る。


穏やかで、何も起きていないような海。


「……勝負は、終わってなかったな」


ミアは、静かに言う。


「……第二ラウンド、ね」


その夜。


一本のメッセージが、悠司のスマートフォンに届く。


差出人不明。


短い動画ファイル。


再生する。


そこには。


別アングルの、倉庫の映像。


フードを被った人物が、何かをタンクに入れている。


その直後。


顔が、一瞬だけ、カメラの方を向く。


赤い塗料の、残る首元。


悠司は、息を止めた。


「……紅丸の……」


だが、その後ろ。


暗がりのガラスに、もう一つ、影が映っている。


「……もう、一人……?」


動画は、そこで終わる。


画面が、暗転する。


ミアが、低く言った。


「……これ、もっと大きな話よ」


悠司は、スマホを強く握りしめた。


「……ああ」


勝者になった、その瞬間から。


別の戦いが、始まっていた。

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