決めるのは誰だ
集計結果を前に、ホールは静まり返っていた。
さっきまで、グラスの音や小さな感想が飛び交っていた空間が、嘘みたいに静かだ。
審査員長は、手元の紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「僅差です」
その一言で、空気がわずかに揺れる。
「Aが良い、という票も多い。Bが良い、という票も、ほぼ同じだけある」
誰かが、息を呑む音がした。
「正直に言えば」
審査員長は、ゆっくりと顔を上げる。
「…このままでは、決めきれません。」
ざわめきが起こる。
「もう一度、テイスティングを?」
「別の料理を?」
「追加の評価軸を?」
いくつもの声が重なる。
だが、審査員長は、首を横に振った。
「これ以上、条件を足せば、“別の勝負”になります」
「今回は、あくまで“この場での味”で決めると、最初に決めたはずです」
沈黙。
誰も、反論できなかった。
その時。
年配の投資家が、静かに手を挙げた。
「一つ、提案があります」
全員の視線が、そちらに向く。
「この船には昔からのルールがあると聞いています」
審査員長が、わずかに頷く。
「“船長裁定”ですね」
その言葉に、何人かが、小さく息を呑む。
「意見が割れ、どうしても決まらない場合……最終判断は、この船の船長が下す」
「海の上では、最終責任者は、いつも一人ですから」
しばし、沈黙。
そして。
「……異論は?」
誰も、手を挙げなかった。
反対できる理由が、なかった。
「では……船長を呼びましょう」
控室。
ミアのタブレットが、小さく鳴る。
「来たわ」
悠司は、ゆっくりと立ち上がる。
「決まらなかった、って顔だな」
「ええ。ほぼ……引き分け」
「そうか」
悠司は、不思議と、落ち着いていた。
「ここまで来たなら……あとは、運だ」
ミアは、少しだけ、苦笑する。
「あなた、こういう時強いのか、諦めてるのか、分からないわね」
「両方だ」
ブリッジ。
大きな窓の向こうに、夜の海が広がっている。
計器の光。
静かなエンジン音。
そこに、船長は立っていた。
背筋の伸びた、年配の男。
海の上で、何十年も決断をしてきた人間の背中だ。
状況の説明を受け、二つのグラスが差し出される。
「AとBです。どちらが、どこの酒かは……伏せられています」
船長は、頷いただけで、何も言わない。
まず、A。
香りを確かめ、ひと口。
「……分かりやすい」
短く、そう言った。
次に、B。
同じように、香りを確かめ、ひと口。
船長は、しばらく、何も言わなかった。
窓の外の海を、少しだけ見つめる。
もう一度、Bを口に含む。
そして。
小さく、息を吐いた。
「若い頃な」
船長は、ぽつりと話し始めた。
「嵐の前の日に、港の小さな食堂で飲んだ酒があった」
誰も、口を挟まない。
「派手じゃない。名も知らない。だが……翌日、海に出てもずっと、体の奥に残っていた」
彼は、Bのグラスを見つめる。
「こういう酒は……仕事の邪魔をしない」
「だが……支えてくれる」
ゆっくりと、ペンを取る。
紙に、何かを書く。
「私の判断はこちらだ」
ホールに戻る。
全員が、息を詰めて待っている。
審査員長が、封筒を受け取る。
一瞬、間を置いてから、開く。
「船長裁定の結果」
静まり返る。
「選ばれたのは……」
悠司は、目を閉じた。
ミアが、そっと、拳を握る。
「Bです」
空気が、一拍遅れて、動いた。
どよめき。
驚き。
そして、拍手。
悠司は、しばらく、動けなかった。
ミアが、肘で、軽くつつく。
「ほら」
悠司は、ようやく、息を吐いた。
「ああ……」
その頃。
別の部屋で。
ブライスは、静かに結果を聞いていた。
一瞬、目が細くなる。
だが、すぐに、笑った。
「なるほど」
グラスの中の酒を、ゆっくりと揺らす。
「面白いじゃないか」
その笑顔は、まだ、負けを認めていなかった。




