(3)譲られた家
季節が、いくつも過ぎた。
街外れの小さな家。
窓から差し込む朝の光の中で、エルドは荷物をまとめていた。
大きな荷物はない。
もともと、物を多く持つ性格ではなかった。
必要なものだけを選び、古びた鞄へ入れていく。
その背後では。
「……これ、どうするの?」
幼い声がした。
振り返る。
理永が、棚の上に置かれた古い道具を指差している。
「置いていく」
「使わないの?」
「新しい場所にも似たようなものはあるだろ」
「そっか」
理永は素直に頷いた。
それ以上は聞かない。
エルドは、そんな理永をちらりと見る。
見た目だけなら、まだ七歳ほど。
けれど。
この子と過ごした時間は、人間の尺度では測れない。
赤ん坊だった頃から。
泣けば抱き上げ。
熱を出せば薬草を煎じ。
歩けるようになれば、転ばないよう見守った。
言葉を覚えれば、街での買い物を教えた。
火の扱い。
料理。
薬草。
金の使い方。
生きていくために必要なことだけ。
それ以上は、特に教えなかった。
教える必要がなかった。
理永には、自然がいた。
水の精霊がそばにいる。
花の妖精が髪を飾る。
風の精が息を吹けば、草木が揺れて教えてくれる。
時には、理永が何も言わなくても。
必要なものが自然と手元に集まる。
エルドには、それが不思議で仕方なかった。
けれど。
もう慣れた。
「……おい」
「なに?」
「この家、お前にやる」
「……え?」
理永が目を丸くする。
エルドは窓の外へ視線を向けた。
「俺は、ここを出る」
「どこかに行くの?」
「そうだな」
少し考えてから答える。
「別の土地を見てみたくなった」
ここにはいつもより長く住んだ。
長く同じ景色を見てきた。
そろそろ、別の場所へ移ってもいい。
エルフの血を引く自分にとって、それは特別なことではなかった。
「でも……」
理永が家の中を見回す。
「ここ、エルドの家じゃないの?」
「そうだったな」
エルドは淡々と答える。
「今は、お前の家だ」
「……私の?」
「そう」
理永は、しばらく黙っていた。
嬉しいのか。
寂しいのか。
自分でも分からないような顔をしている。
エルドは少しだけ目を細めた。
「一人で大丈夫か?」
「うん」
即答だった。
「……そうか」
エルドは、それ以上何も言わなかった。
心配ではある。
だが。
この子はもう、赤ん坊ではない。
街へ行けば自分で買い物ができる。
簡単な料理もできる。
薬草を見分けることもできる。
危険な場所へ無闇に近づかないことも知っている。
そして何より。
自然が、この子を見捨てない。
窓の外で、花の妖精がひらひらと舞った。
水の精霊が、庭の水瓶を小さく揺らす。
理永がそれを見る。
「……みんなもいるし」
そう言って、少し笑った。
エルドは肩を竦める。
「それなら問題ないな」
「うん」
「困ったことがあれば、街の店で聞け」
「分かった」
「金が足りなくなったら、薬草でも売ればいい」
「うん」
「火事だけは起こすなよ」
「……気をつける」
「あと…、知らない奴について行くな」
「子供じゃないよ」
「見た目はな」
「……もうっ」
理永が頬を膨らませる。
エルドは、ほんの少しだけ笑った。
荷物を背負う。
扉へ向かう。
理永も後ろからついてくる。
「エルド」
「なんだ」
「……また帰ってくる?」
エルドは足を止めた。
振り返る。
「用があればな」
「そっか」
理永は、それで納得した。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「ああ」
扉を開ける。
朝の風が吹き込んだ。
エルドは一度だけ、家を振り返る。
そこには。
赤ん坊だった頃から見てきた少女が立っている。
小さな身体。
アメジスト色の髪。
穏やかな瞳。
その周囲には、いつものように妖精と精霊がいる。
もう、自分がいなくても大丈夫だ。
そう思った。
「……元気でな」
「エルドも」
それだけ。
別れを惜しむような言葉は、必要なかった。
長命な者にとって。
別れは、永遠とは限らない。
エルドは歩き出す。
街の向こうへ。
そして、その先へ。
新しい土地を求めて。
振り返ることなく。
家には、理永が残った。
賑やかだけど静かな家。
小さな庭。
花壇。
薬草。
そして――
「……さて」
理永は小さく呟いた。
これから。
どうしようか。
けれど、不安はなかった。
水の精霊が、足元をくるりと回る。
花の妖精が、髪の上へ舞い降りる。
理永は小さく笑った。
「……お茶、淹れようかな」
いつもの朝。
けれど。
今日から、この家は。
自分の家だった。




