(2)拾われた魔女
金色の炎が消えた、その朝。
街外れの家から、一人のハーフエルフの男が出てきた。
朝の空気を吸い込みながら、伸びをする。
今日も変わらない一日――
になるはずだった。
ふと。
足元に、妙な気配を感じる。
視線を落とす。
そこに、赤ん坊がいた。
「…………」
しばらく、黙って見下ろす。
泣いてはいない。
眠っている。
小さな身体を丸め、何事もなかったように。
男は眉を寄せた。
「……なんでこんなところに?」
周囲を見回す。
誰もいない。
街からも少し離れている。
置き去りにされたのか。
捨てられたのか。
それとも――。
考えても分からない。
男は小さく息を吐いた。
「……面倒なものを拾ったな」
そう呟きながらも、赤ん坊を抱き上げた。
腕の中に収まる、小さな身体。
軽い。
あまりにも軽かった。
「……死なれるのも寝覚めが悪い」
それだけ言って、家の中へ戻った。
家に入って、しばらく。
男は赤ん坊を寝かせた。
そして――
見つめる。
「…………」
赤ん坊は眠ったままだ。
男は腕を組んだ。
「……さて」
何をすればいいか。
分からない……。
赤ん坊を育てたことなど、一度もない。
そもそも。
自分は誰かと暮らすことすら、あまり得意ではない。
「……困ったな」
そのとき。
赤ん坊が小さく身じろぎした。
「……ん」
そして。
泣いた。
「…………」
男が固まる。
「……どうした」
もちろん、分かるはずがない。
赤ん坊は泣き続ける。
「腹か?」
抱き上げる。
泣き止まない。
「寒いのか?」
毛布をかける。
泣き止まない。
「……眠いのか?」
ぎこちなくも揺すってみるが。
泣き止まない。
「…………」
男はしばらく赤ん坊を見つめた。
「……俺に聞かれても、分からんぞ」
当然、返事はない。
そのとき。
窓の外から、小さな光が入ってきた。
ひとつ。
またひとつ。
赤ん坊の周りをくるくると飛び回る。
「……お前たち、何をそんなに騒いでいる」
妖精たちは答える代わりに、楽しそうに舞う。
水の精霊が赤ん坊の頬へ近づく。
小さな水の粒になって、そっと触れた。
ひやり。
赤ん坊の頬が動く。
泣き声が止まった。
男が目を瞬く。
「……止まった?」
花の妖精が赤ん坊の髪の上へ降りてくる。
小さな花を一輪。
そっと乗せる。
赤ん坊が目を開いた。
そして――
ふにゃり。
小さく笑った。
妖精たちが一斉に騒ぎ始める。
そよ風が吹き。
花が揺れる。
光が舞う。
水滴が弾ける。
「……お前たち」
男は呆れたように眺める。
「そんなに嬉しいのか」
返事の代わりに、さらに騒がしくなる。
男は赤ん坊を見る。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、機嫌よく笑っている。
「…………」
少し考えて。
「……気に入ったらしいな」
それだけ呟いた。
けれど。
子育ては、そこからだった。
次の日。
男は街へ向かった。
赤ん坊を抱えたまま。
「……赤ん坊が食べるものが欲しい」
店員にそう言ってから、しばらく説明を受ける。
男は真剣な顔で頷いた。
「そうか」
必要なものを買う。
服。
布。
食べ物。
その他、赤ん坊に必要だと言われたもの。
荷物は増えた。
「…………」
帰り道。
腕の中の赤ん坊を見る。
「お前一人のために、ずいぶん増えたな」
赤ん坊は眠っている。
返事はない。
「……まあ、いい」
そう言って歩く。
家へ戻れば、また忙しい。
泣く。
眠る。
起きる。
食べる。
また泣く。
「……今度は何だ」
男が抱き上げる。
すると。
窓辺から妖精が飛んでくる。
「お前たちには分かるのか?」
妖精は男の頭の上を一周すると、赤ん坊のところへ戻っていく。
「……役に立たんな」
言いながらも。
男は少しだけ口元を緩めた。
季節がいくつも巡り。
赤ん坊は、少しずつ大きくなった。
寝返りを覚え。
這うようになり。
やがて――
立った。
「……おい」
男が振り返る。
小さな手で家具につかまりながら、理永が立っている。
「歩くなよ」
言った直後。
一歩。
よろけながら、足を踏み出す。
「……」
二歩目。
男が思わず手を伸ばす。
三歩目。
そのまま倒れ込んできた身体を、慌てて受け止める。
「……危ないだろ」
腕の中で、理永が笑う。
男は小さく息を吐いた。
「……まったく」
その声は、少しだけ優しかった。
言葉を教えてやる。
最初に覚えたのは、簡単な言葉ばかりだった。
「みず」
「ごはん」
「はな」
そして。
「……わんわん」
男が眉を上げる。
「それは犬じゃない」
庭にいつの間にか現れていた三毛猫が、何食わぬ顔で歩いている。
理永が嬉しそうに駆け寄る。
「にゃんにゃん」
猫は尻尾を揺らした。
男は猫を見る。
「……いつからいた」
ミケは答えない。
ただ理永の足元を一周して、庭の奥へ消えていく。
男は肩を竦めた。
「……好きにしろ」
そうして。
ゆっくりと時間が流れていった。
男が教えたのは、生きていくために必要最低限なこと。
食べること。
火の使い方。
街で物を売り買うこと。
自分の身の回りを整えること。
薬草の見分け方。
危険な植物。
簡単な料理。
それだけだった。
魔法について、深く教えたことはない。
教える必要もなかった。
理永は自然の中で、自然に魔法を使っていたからだ。
水が欲しければ、水が寄ってくるし。
花を育てたければ、花が教えてくれる。
土が乾けば、水が巡る。
雨に濡れれば風が吹き、雨水を乾かす。
妖精や精霊達が、その小さな手を導いていく。
理永にとって、それは特別なことではなかった。
ただ。
そういうものだった。
そして男は、いつしか気づく。
この子は。
もう一人でも生きていけるな。
見た目はまだ幼い。
けれど、長い年月を生きる種族にとって、時間は人間とは違う。
焦る必要などない。
ゆっくりでいい。
理永は、ゆっくり育っていった。
泣けば誰かが世話を焼く。
困れば、誰かが手を差し伸べる。
そうやっていつしか、自分でできることが増えていった。
そんな環境の中で。
理永は穏やかに、のんびりと。
自然の一部のように育っていった。




