(9)――残されたもの
(視点:由良)
墓を作り終えても、
理永はその場から動かなかった。
風が吹いている。
木々が揺れる。
いつもと変わらない森の音。
けれど――
理永だけが、
そこから取り残されたように立っていた。
「……」
由良は、少し離れた場所から見ていた。
声をかけようとは思わなかった。
今、何を言っても、
理永の中に届くとは思えなかった。
死は巡る。
命は形を変える。
老魔女自身も、
そう教えてきた。
理永だって、それを知っている。
知っているからこそ。
今、何を失ったのかを、
理解してしまっている。
「……先生」
小さな声。
理永が、もう一度だけ呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
それでも。
呼ばずにはいられないのだろう。
由良は、何も言わなかった。
ただ、その場にいた。
やがて理永が、
ゆっくりと視線を落とす。
「……おかしいわね」
独り言のような声だった。
「何がですか」
由良が静かに返す。
理永はしばらく黙っていた。
それから。
「分かっているの」
小さく息を吐く。
「死がどういうものなのか」
視線は墓から動かない。
「いつか終わることも。
命が巡ることも」
そこで言葉が止まる。
「……なのに」
指先が、わずかに握られる。
「ここにいない」
その一言だけだった。
由良は目を伏せる。
それが、
理永にとっての答えなのだと思った。
理屈では埋められない。
知識でも、理解でも。
そこにいた人が、
もういない。
それだけで、
世界の一部分が欠けてしまう。
「……悲しいのね」
由良が言う。
理永は少しだけ目を瞬く。
「……そうなのかもしれない」
初めて、
自分の感情に名前をつけるような声だった。
「胸が苦しい」
少し間を置く。
「何をしても、足りない気がする」
由良は何も答えなかった。
答えられなかった。
悲しみを消す言葉など、
知らない。
だから。
ただ、一歩だけ近づいた。
理永の隣に立つ。
肩が触れそうな距離。
それ以上は近づかない。
触れるかどうかは、
理永に委ねる。
しばらくして。
理永の手が、
ほんの少しだけ動いた。
迷うように。
それから。
由良の袖を、指先でつまんだ。
ほんのわずかに。
「……」
由良は動かなかった。
その手を振りほどくことも、
何かを言うこともしない。
ただ、
そこにいる。
理永は顔を上げない。
「……もう少し」
小さな声。
「ここにいてもいい?」
由良は静かに答えた。
「ええ」
それだけ。
理永の指先が、
少しだけ力を込める。
そのまま二人は、
墓の前に立っていた。
どれくらい時間が経ったのか、
分からない。
風が何度も吹いた。
雲が流れ、
森の光が少しずつ変わっていく。
けれど、
由良は動かなかった。
何かをしてあげる必要はない。
悲しみを消す必要も。
忘れさせる必要もない。
今はただ――
一人にしない。
それだけでいい。
やがて、
理永が小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「何もしていませんよ」
「それでも」
理永は顔を上げた。
目元には、
まだ涙の跡が残っている。
けれど、
先ほどより少しだけ落ち着いていた。
「いてくれたから」
その言葉に、
由良は一瞬だけ黙った。
胸の奥に、
静かなものが落ちる。
――ここにいる。
それだけのこと。
けれど、
それが理永にとって意味を持つのなら。
それでいい。
「……帰りましょうか」
由良が言う。
理永は墓を振り返る。
「……ええ」
二人で歩き出す。
森の道を、
ゆっくりと戻っていく。
以前なら、
由良はただ歩いていただろう。
必要な場所へ行き、
必要なことを済ませ、
そして戻る。
それで十分だった。
けれど今は違う。
隣にいる人の歩幅を、
自然に合わせている。
少し遅くなれば、
自分も歩みを緩める。
理永が足を止めれば、
同じように止まる。
それが、
特別なことではなくなっていた。
小屋が見えてくる。
理永が扉の前で立ち止まった。
「……先生がいないと」
小さな声。
「ここも、少し違って見えるわね」
由良は小屋を見る。
何も変わっていない。
机も。
本も。
薬草も。
昨日までと同じ場所にある。
それでも。
そこにいた人だけが、
もういない。
「……そうですね」
由良は否定しなかった。
理永は扉を開ける。
中へ入る。
静かな部屋。
いつもなら聞こえていた声がない。
理永はしばらく立ったまま、
部屋を見渡していた。
それから。
「……少しだけ、ここにいるわ」
「ええ」
由良は答える。
理永が机へ向かう。
椅子に座る。
本を開く。
けれど、
すぐには読まない。
由良は少し離れた場所に座った。
何も言わない。
理永も何も言わない。
ただ、
同じ部屋にいる。
それだけだった。
しばらくして、
理永が本を閉じる。
「……由良」
「はい」
「明日からも」
少しだけ間があった。
「……ここに来てもいい?」
由良は、
迷わず答えた。
「もちろんです」
理永が小さく頷く。
その表情に、
ほんのわずかな安心が浮かんだ。
由良はそれを見て、
静かに息を吐く。
――守りたい。
その言葉が、
今度ははっきりと浮かんだ。
けれど、
まだ口にはしない。
何から守るのかも。
どう守るのかも。
分からない。
ただ。
この人が一人で抱え込むなら、
その手をとろう。
悲しみに沈むなら、
隣で戻ってくるまで待つ。
歩けなくなったなら、
歩けるように傍で支えよう。
それだけは、
もう決めていた。
老魔女を失った今日。
由良の中に、
ひとつの小さな意志が残った。
――理永を、一人にしない。
それはまだ、
誰にも告げない決意だった。
けれど。
その日から。
由良にとって、
「隣にいる」ということは、
ただの習慣ではなくなった。




