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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(9)――残されたもの

(視点:由良)


墓を作り終えても、

理永はその場から動かなかった。


風が吹いている。

木々が揺れる。

いつもと変わらない森の音。


けれど――


理永だけが、

そこから取り残されたように立っていた。


「……」


由良は、少し離れた場所から見ていた。


声をかけようとは思わなかった。


今、何を言っても、

理永の中に届くとは思えなかった。


死は巡る。

命は形を変える。


老魔女自身も、

そう教えてきた。


理永だって、それを知っている。

知っているからこそ。


今、何を失ったのかを、

理解してしまっている。


「……先生」


小さな声。


理永が、もう一度だけ呼ぶ。

返事はない。


当然だ。

それでも。

呼ばずにはいられないのだろう。


由良は、何も言わなかった。

ただ、その場にいた。


やがて理永が、

ゆっくりと視線を落とす。


「……おかしいわね」


独り言のような声だった。


「何がですか」


由良が静かに返す。

理永はしばらく黙っていた。


それから。


「分かっているの」


小さく息を吐く。


「死がどういうものなのか」


視線は墓から動かない。


「いつか終わることも。

 命が巡ることも」


そこで言葉が止まる。


「……なのに」


指先が、わずかに握られる。


「ここにいない」


その一言だけだった。


由良は目を伏せる。


それが、

理永にとっての答えなのだと思った。


理屈では埋められない。

知識でも、理解でも。


そこにいた人が、

もういない。


それだけで、

世界の一部分が欠けてしまう。


「……悲しいのね」


由良が言う。


理永は少しだけ目を瞬く。


「……そうなのかもしれない」


初めて、

自分の感情に名前をつけるような声だった。


「胸が苦しい」


少し間を置く。


「何をしても、足りない気がする」


由良は何も答えなかった。

答えられなかった。


悲しみを消す言葉など、

知らない。


だから。

ただ、一歩だけ近づいた。


理永の隣に立つ。

肩が触れそうな距離。


それ以上は近づかない。


触れるかどうかは、

理永に委ねる。


しばらくして。


理永の手が、

ほんの少しだけ動いた。


迷うように。


それから。

由良の袖を、指先でつまんだ。


ほんのわずかに。


「……」


由良は動かなかった。


その手を振りほどくことも、

何かを言うこともしない。


ただ、

そこにいる。


理永は顔を上げない。


「……もう少し」


小さな声。


「ここにいてもいい?」


由良は静かに答えた。


「ええ」


それだけ。


理永の指先が、

少しだけ力を込める。


そのまま二人は、

墓の前に立っていた。


どれくらい時間が経ったのか、

分からない。


風が何度も吹いた。


雲が流れ、

森の光が少しずつ変わっていく。


けれど、

由良は動かなかった。


何かをしてあげる必要はない。


悲しみを消す必要も。

忘れさせる必要もない。


今はただ――

一人にしない。


それだけでいい。


やがて、

理永が小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


「何もしていませんよ」


「それでも」


理永は顔を上げた。


目元には、

まだ涙の跡が残っている。


けれど、

先ほどより少しだけ落ち着いていた。


「いてくれたから」


その言葉に、

由良は一瞬だけ黙った。


胸の奥に、

静かなものが落ちる。


――ここにいる。


それだけのこと。


けれど、

それが理永にとって意味を持つのなら。


それでいい。


「……帰りましょうか」


由良が言う。


理永は墓を振り返る。


「……ええ」


二人で歩き出す。


森の道を、

ゆっくりと戻っていく。


以前なら、

由良はただ歩いていただろう。


必要な場所へ行き、

必要なことを済ませ、

そして戻る。


それで十分だった。


けれど今は違う。


隣にいる人の歩幅を、

自然に合わせている。


少し遅くなれば、

自分も歩みを緩める。


理永が足を止めれば、

同じように止まる。


それが、

特別なことではなくなっていた。


小屋が見えてくる。


理永が扉の前で立ち止まった。


「……先生がいないと」


小さな声。


「ここも、少し違って見えるわね」


由良は小屋を見る。


何も変わっていない。


机も。

本も。

薬草も。

昨日までと同じ場所にある。


それでも。


そこにいた人だけが、

もういない。


「……そうですね」


由良は否定しなかった。


理永は扉を開ける。


中へ入る。

静かな部屋。


いつもなら聞こえていた声がない。


理永はしばらく立ったまま、

部屋を見渡していた。


それから。


「……少しだけ、ここにいるわ」


「ええ」


由良は答える。


理永が机へ向かう。


椅子に座る。


本を開く。


けれど、

すぐには読まない。


由良は少し離れた場所に座った。


何も言わない。

理永も何も言わない。


ただ、

同じ部屋にいる。


それだけだった。


しばらくして、

理永が本を閉じる。


「……由良」


「はい」


「明日からも」


少しだけ間があった。


「……ここに来てもいい?」


由良は、

迷わず答えた。


「もちろんです」


理永が小さく頷く。


その表情に、

ほんのわずかな安心が浮かんだ。


由良はそれを見て、

静かに息を吐く。


――守りたい。


その言葉が、

今度ははっきりと浮かんだ。


けれど、

まだ口にはしない。


何から守るのかも。

どう守るのかも。

分からない。


ただ。

この人が一人で抱え込むなら、

その手をとろう。


悲しみに沈むなら、

隣で戻ってくるまで待つ。


歩けなくなったなら、

歩けるように傍で支えよう。


それだけは、

もう決めていた。


老魔女を失った今日。


由良の中に、

ひとつの小さな意志が残った。


――理永を、一人にしない。


それはまだ、

誰にも告げない決意だった。


けれど。


その日から。


由良にとって、

「隣にいる」ということは、

ただの習慣ではなくなった。





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