(8)――温もり
(視点:由良)
その日も、特別なことはなかった。
朝の光が森を照らし、 風が木々の間を抜けていく。
老魔女の小屋からは、 いつものように煙が上がっていた。
理永は、朝から机に向かっている。
本を開き、 紙を広げ、 いくつもの式を書き並べている。
由良は少し離れた場所で、 採取してきた薬草を整理していた。
「……由良」
呼ばれて、顔を上げる。
「はい」
「これ、どう思う?」
理永が紙を差し出す。
由良は立ち上がり、 その隣へ歩く。
肩が触れそうな距離。
以前なら、もう少し離れて立っていた。
今は、それを意識することもなくなっていた。
「この部分ですか」
「ええ」
式を追う。
理永の考えを辿る。
「……ここを一度、外してみては?」
「外す?」
「はい」
由良が指を置く。
「この式そのものが必要なのではなく、次の工程へ繋ぐために置いているように見えます」
理永はしばらく黙っていた。
やがて。
「……なるほど」
ペンを取る。
線を一本、消す。
そして書き直す。
「……成立する」
小さく呟いた。
その顔が、 ほんの少しだけ嬉しそうに緩む。
由良は、その表情を見ていた。
まただ。
こういう瞬間が好きだった。
理永が何かを見つけた時。
分からなかったものが繋がった時。
世界の中にある一つの仕組みを、 自分の手で見つけたように笑う時。
それを隣で見ることが、 いつの間にか好きになっていた。
「ありがとう」
「いえ」
「あなたがいると、早いわ」
何気ない言葉。
けれど。
胸の奥に、 小さく何かが落ちた。
「……そうですか」
それ以上は返せなかった。
昼を過ぎた頃。
理永は一度、筆を置いた。
「少し休みましょう」
珍しいことだった。
由良が目を向けると、 理永は窓の外を見ている。
「今日は、外が静かだから」
「静か?」
「ええ」
二人で外へ出る。
森は穏やかだった。
鳥の声。
葉が擦れる音。
遠くで流れる水の音。
何も変わらない。
けれど。
理永は、しばらく何も言わずに立っていた。
「……どうしましたか」
「ううん」
理永が首を振る。
「ただ、こういう時間も悪くないと思って」
由良は少しだけ目を細める。
理永が研究以外のことを、 自分から口にするのは珍しかった。
「また来ればいいでしょう」
自然にそう言う。
理永がこちらを見る。
「……そうね」
小さく笑った。
その笑顔を見て、 由良はふと思う。
――また。
その言葉が、 当たり前のものだと思っていた。
明日も。
その次も。
季節が変わっても。
こうして理永の隣にいる。
それが、いつまでも続くような気がしていた。
けれど。
なぜだろう。
その考えに、 ほんのわずかな違和感があった。
永遠なんてものを、 考えたことはなかった。
生きている限り続く。
それだけで十分だと思っていた。
けれど。
理永と過ごすようになってから、 「失う」という言葉が、 以前より近く感じるようになった。
由良は、無意識に理永を見る。
風に髪が揺れている。
穏やかな横顔。
何も変わらない。
それなのに。
――この人が、ここからいなくなる。
その光景を想像した瞬間。
胸の奥が、 わずかに痛んだ。
由良は目を伏せる。
理由は分からない。
ただ。
その未来だけは、 考えたくなかった。
「由良?」
声がする。
顔を上げる。
「何?」
「……いえ」
理永は少しだけ首を傾げる。
「ぼんやりしていたから」
「少し考え事を」
「珍しいわね」
「そうですか?」
「ええ」
理永はそう言って、 由良の顔を覗き込む。
近い。
以前なら、 こんな距離になることはなかった。
けれど。
今は、離れようとは思わなかった。
「……大丈夫です」
「そう」
それだけ。
理永は、それ以上聞かなかった。
けれど、 ほんの少しだけ視線を残した。
そのことが、 なぜか嬉しかった。
夕方。
小屋へ戻ると、 老魔女が二人を見ていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
理永も続ける。
「ただいま」
老魔女は穏やかに笑う。
「今日は、ずいぶん一緒だったねぇ」
理永が少しだけ目を瞬く。
「そう?」
「ええ」
老魔女の視線が、 由良へ向く。
何かを見透かされているような気がした。
けれど、 問いかけられることはなかった。
「仲良くするのは、いいことよ」
ただ、それだけ。
理永は少し考えてから、
「……そうね」
と答えた。
由良は何も言わなかった。
けれど。
その言葉が、 胸の奥に残った。
夜。
理永はまだ机に向かっていた。
由良は、少し離れた場所に座っている。
紙をめくる音。
ペンの音。
静かな時間。
「……眠くないんですか」
由良が尋ねる。
「まだ大丈夫」
「無理はしないでください」
「分かってるわ」
そう答えながら、理永はまた式を書き始める。
由良は、その横顔を見る。
理永が笑うところが好きだった。
何かを見つけた時の、わずかに緩む表情。
研究が思うように進んだ時の、子供のような目。
けれど。
こうして何も話さず、同じ場所にいる時間も好きだった。
紙をめくる音。
時折、ペンが止まる音。
窓の外を流れる風。
それらに囲まれていると、不思議と心が静かになる。
理永が何かを話さなくてもいい。
由良も、何かを話す必要がない。
ただ、そこにいる。
それだけでよかった。
――温かい。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
火の温度でもない。
触れた指先の温もりだけでもない。
もっと静かで、穏やかなもの。
理永と過ごす時間そのものが、少しずつ自分の中に残っている。
由良は、目を伏せる。
この時間が好きだった。
理永の笑顔も。
声も。
隣にいることも。
そして――
何も起こらない、こういう静かな時間も。
「……どうしたの?」
理永が顔を上げる。
「いえ」
「また考え事?」
「少し」
「何を?」
由良は答えなかった。
まだ、自分でもうまく言葉にできない。
代わりに、
「明日も来ます」
そう言った。
理永が、少しだけ目を細める。
「ええ」
短い返事。
それだけだった。
けれど。
由良には、それで十分だった。
また、この場所へ来る。
また、この声を聞く。
また、同じ時間を過ごす。
そう思うと、胸の奥が静かに満たされた。
由良は、もう一度だけ理永を見る。
理永は何事もなかったように、机へ視線を戻している。
その横顔を眺めながら、由良も静かに目を伏せた。
今はまだ。
この温かさが、ただそこにあることを。
それだけで、よかった。




