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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(8)――温もり

(視点:由良)


その日も、特別なことはなかった。


朝の光が森を照らし、 風が木々の間を抜けていく。


老魔女の小屋からは、 いつものように煙が上がっていた。


理永は、朝から机に向かっている。

本を開き、 紙を広げ、 いくつもの式を書き並べている。


由良は少し離れた場所で、 採取してきた薬草を整理していた。


「……由良」


呼ばれて、顔を上げる。


「はい」


「これ、どう思う?」


理永が紙を差し出す。

由良は立ち上がり、 その隣へ歩く。


肩が触れそうな距離。

以前なら、もう少し離れて立っていた。


今は、それを意識することもなくなっていた。


「この部分ですか」


「ええ」


式を追う。


理永の考えを辿る。


「……ここを一度、外してみては?」


「外す?」


「はい」


由良が指を置く。


「この式そのものが必要なのではなく、次の工程へ繋ぐために置いているように見えます」


理永はしばらく黙っていた。


やがて。


「……なるほど」


ペンを取る。


線を一本、消す。

そして書き直す。


「……成立する」


小さく呟いた。


その顔が、 ほんの少しだけ嬉しそうに緩む。


由良は、その表情を見ていた。


まただ。

こういう瞬間が好きだった。


理永が何かを見つけた時。

分からなかったものが繋がった時。


世界の中にある一つの仕組みを、 自分の手で見つけたように笑う時。


それを隣で見ることが、 いつの間にか好きになっていた。


「ありがとう」


「いえ」


「あなたがいると、早いわ」


何気ない言葉。


けれど。


胸の奥に、 小さく何かが落ちた。


「……そうですか」


それ以上は返せなかった。




昼を過ぎた頃。


理永は一度、筆を置いた。


「少し休みましょう」


珍しいことだった。


由良が目を向けると、 理永は窓の外を見ている。


「今日は、外が静かだから」


「静か?」


「ええ」


二人で外へ出る。


森は穏やかだった。

鳥の声。

葉が擦れる音。

遠くで流れる水の音。


何も変わらない。

けれど。

理永は、しばらく何も言わずに立っていた。


「……どうしましたか」


「ううん」


理永が首を振る。


「ただ、こういう時間も悪くないと思って」


由良は少しだけ目を細める。


理永が研究以外のことを、 自分から口にするのは珍しかった。


「また来ればいいでしょう」


自然にそう言う。


理永がこちらを見る。


「……そうね」


小さく笑った。


その笑顔を見て、 由良はふと思う。


――また。


その言葉が、 当たり前のものだと思っていた。


明日も。

その次も。

季節が変わっても。


こうして理永の隣にいる。

それが、いつまでも続くような気がしていた。


けれど。

なぜだろう。

その考えに、 ほんのわずかな違和感があった。


永遠なんてものを、 考えたことはなかった。

生きている限り続く。


それだけで十分だと思っていた。

けれど。


理永と過ごすようになってから、 「失う」という言葉が、 以前より近く感じるようになった。


由良は、無意識に理永を見る。

風に髪が揺れている。


穏やかな横顔。


何も変わらない。

それなのに。


――この人が、ここからいなくなる。


その光景を想像した瞬間。

胸の奥が、 わずかに痛んだ。


由良は目を伏せる。

理由は分からない。


ただ。

その未来だけは、 考えたくなかった。




「由良?」


声がする。

顔を上げる。


「何?」


「……いえ」


理永は少しだけ首を傾げる。


「ぼんやりしていたから」


「少し考え事を」


「珍しいわね」


「そうですか?」


「ええ」


理永はそう言って、 由良の顔を覗き込む。


近い。

以前なら、 こんな距離になることはなかった。


けれど。

今は、離れようとは思わなかった。


「……大丈夫です」


「そう」


それだけ。

理永は、それ以上聞かなかった。


けれど、 ほんの少しだけ視線を残した。

そのことが、 なぜか嬉しかった。




夕方。


小屋へ戻ると、 老魔女が二人を見ていた。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


理永も続ける。


「ただいま」


老魔女は穏やかに笑う。


「今日は、ずいぶん一緒だったねぇ」


理永が少しだけ目を瞬く。


「そう?」


「ええ」


老魔女の視線が、 由良へ向く。


何かを見透かされているような気がした。

けれど、 問いかけられることはなかった。


「仲良くするのは、いいことよ」


ただ、それだけ。


理永は少し考えてから、


「……そうね」


と答えた。


由良は何も言わなかった。


けれど。

その言葉が、 胸の奥に残った。




夜。


理永はまだ机に向かっていた。

由良は、少し離れた場所に座っている。


紙をめくる音。

ペンの音。


静かな時間。


「……眠くないんですか」


由良が尋ねる。


「まだ大丈夫」


「無理はしないでください」


「分かってるわ」


そう答えながら、理永はまた式を書き始める。


由良は、その横顔を見る。


理永が笑うところが好きだった。


何かを見つけた時の、わずかに緩む表情。

研究が思うように進んだ時の、子供のような目。


けれど。


こうして何も話さず、同じ場所にいる時間も好きだった。


紙をめくる音。

時折、ペンが止まる音。

窓の外を流れる風。


それらに囲まれていると、不思議と心が静かになる。


理永が何かを話さなくてもいい。

由良も、何かを話す必要がない。


ただ、そこにいる。


それだけでよかった。


――温かい。


ふと、そんな言葉が浮かんだ。


火の温度でもない。

触れた指先の温もりだけでもない。


もっと静かで、穏やかなもの。


理永と過ごす時間そのものが、少しずつ自分の中に残っている。


由良は、目を伏せる。


この時間が好きだった。


理永の笑顔も。

声も。

隣にいることも。


そして――


何も起こらない、こういう静かな時間も。


「……どうしたの?」


理永が顔を上げる。


「いえ」


「また考え事?」


「少し」


「何を?」


由良は答えなかった。


まだ、自分でもうまく言葉にできない。


代わりに、


「明日も来ます」


そう言った。


理永が、少しだけ目を細める。


「ええ」


短い返事。


それだけだった。


けれど。


由良には、それで十分だった。


また、この場所へ来る。

また、この声を聞く。

また、同じ時間を過ごす。

そう思うと、胸の奥が静かに満たされた。


由良は、もう一度だけ理永を見る。


理永は何事もなかったように、机へ視線を戻している。


その横顔を眺めながら、由良も静かに目を伏せた。


今はまだ。

この温かさが、ただそこにあることを。


それだけで、よかった。





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