(7)――まだ、名前のないもの
(視点:由良)
理永と過ごす時間が、少しずつ増えていた。
最初から、そう決めていたわけではない。
研究の話をするため。 必要な素材を届けるため。 森や山で見つけたものを持ち帰るため。
理由はいくらでもあった。
けれど。
いつからか、その理由を考えること自体がなくなっていた。
小屋の扉を叩く。
「入っても?」
「どうぞ」
その声を聞く。
それだけで、足を運んだ理由を確かめる必要がなくなる。
由良は、そんな自分を不思議に思うことがあった。
以前なら、目的がなければ動かなかった。
必要があるから行く。 必要がなくなれば戻る。
それで十分だった。
けれど。
理永のいる場所だけは、 なぜか、それだけではなかった。
「これ」
机の上に、採取してきた素材を置く。
理永が顔を上げる。
その瞬間。
ほんのわずかに、表情が変わる。
目が細まり、 興味を示す。
それだけの変化。
けれど、由良はそれを見ていた。
「……南の湿地で?」
「ええ」
「よく見つけましたね」
その言葉が、妙に残る。
褒められたわけではない。
特別なことを言われたわけでもない。
それでも。
理永が嬉しそうにしている。
ただ、それだけでよかった。
「また、探してきます」
自然に口にしてから、 由良自身が少しだけ驚いた。
理永も、少しだけ目を瞬く。
「……無理はしなくていいですよ」
「無理ではありません」
そう答える。
本当に、無理ではなかった。
むしろ。
理永が必要としているものを探すことは、 いつの間にか苦ではなくなっていた。
それどころか。
次は何を持っていけば、 あの目がまた少しだけ変わるだろう。
そんなことを考えるようになっていた。
――妙なものだ。
そう思う。
けれど、理由を追及するほどではない。
まだ、この感情に名前はなかった。
――――――――――――――――――――
ある日。
理永は、机に向かったまま動かなかった。
本を開いている。
けれど、ページはしばらく変わっていない。
「どうしましたか」
声をかけると、 理永は顔を上げた。
「……分からないの」
「何が?」
「この式が」
紙の上には、複雑な魔法式が並んでいる。
理永は、その一部を指でなぞる。
「理屈では成立するはずなのに、何かが違う」
由良は隣に立った。
紙を見る。
式を見る。
けれど、由良が見ているのは、 それだけではなかった。
理永は、分からないことをそのままにしておけない。
納得するまで考える。
一人で考え続ける。
そして、気づけばすべてを自分の中に抱え込んでいる。
それを知ってから、 由良は少しだけ気にするようになった。
「今日は、ここまでにしては?」
「でも――」
「続きは明日でもできます」
理永が黙る。
視線だけが、式の上を動く。
「……そうね」
ペンが置かれた。
由良は、ほんの少しだけ息を吐く。
それを見ていた理永が、 不思議そうに首を傾げる。
「何?」
「いえ」
答えられない。
あなたが無理をしているのを見ると、 落ち着かない。
そんなことを言う理由も、 まだ分からなかった。
外へ出る。
夕方の光が森を薄く染めていた。
理永は歩きながら、 さっきの式について考えている。
「……やっぱり、あそこを変えたほうがいいかもしれない」
「まだ考えていたんですか」
「気になるから」
「そうでしょうね」
理永が少しだけ笑った。
その横顔を見て、 由良もわずかに目を細める。
この人は、 こういう人なのだと思う。
興味を持ったものから、 簡単には目を逸らさない。
世界の仕組みを知ろうとして、 理解できないものがあれば、 何度でも手を伸ばす。
その姿が、 なぜか好きだった。
――好き。
その言葉が浮かんだ瞬間、 由良はわずかに思考を止めた。
けれど。
すぐには否定しなかった。
まだ、それが何を意味するのか分からない。
ただ。
理永といる時間が好きだった。
声を聞くこと。
隣を歩くこと。
研究の話をすること。
何でもないことで笑うこと。
言葉がなくても、 同じ場所にいること。
そのひとつひとつが、 少しずつ自分の中に残っていく。
それだけだった。
――――――――――――――――――――
ある日。
風に吹かれた理永の髪が、 頬にかかっていた。
由良は、手を伸ばす。
指先で髪をすくう。
理永がこちらを見る。
「……」
何も言わない。
避けることもない。
そのまま、静かに受け入れる。
指先を離す。
けれど。
触れた感覚だけが、 しばらく残った。
――もっと触れたい。
一瞬、そんな思いが浮かんだ。
由良は、それを追わなかった。
今はまだ、 それでいいと思った。
ただ。
隣にいられるなら。
それでいい。
帰り道。
「また来ますか」
そう尋ねる。
理永は、少しも迷わなかった。
「ええ」
短い返事。
それから。
「また来ましょう」
由良は、わずかに目を細める。
約束ではない。
大げさな言葉でもない。
けれど。
その言葉を聞いた瞬間、 胸の奥に何かが静かに残った。
――次がある。
そう思った。
それだけで、 少しだけ嬉しかった。
隣を歩く理永を見ていた。
風が吹く。
髪が揺れる。
その横顔を、 由良は静かに見つめる。
まだ、名前のない想い。
けれど。
それはもう、 消えてしまっても構わないものではなかった。
――この時間を、失いたくない。
その思いだけが。
誰にも告げられないまま、 由良の中に静かに残った。




