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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(7)――まだ、名前のないもの

(視点:由良)


理永と過ごす時間が、少しずつ増えていた。


最初から、そう決めていたわけではない。


研究の話をするため。 必要な素材を届けるため。 森や山で見つけたものを持ち帰るため。


理由はいくらでもあった。


けれど。

いつからか、その理由を考えること自体がなくなっていた。


小屋の扉を叩く。


「入っても?」


「どうぞ」


その声を聞く。


それだけで、足を運んだ理由を確かめる必要がなくなる。


由良は、そんな自分を不思議に思うことがあった。


以前なら、目的がなければ動かなかった。

必要があるから行く。 必要がなくなれば戻る。

それで十分だった。


けれど。

理永のいる場所だけは、 なぜか、それだけではなかった。


「これ」


机の上に、採取してきた素材を置く。


理永が顔を上げる。


その瞬間。

ほんのわずかに、表情が変わる。


目が細まり、 興味を示す。


それだけの変化。


けれど、由良はそれを見ていた。


「……南の湿地で?」


「ええ」


「よく見つけましたね」


その言葉が、妙に残る。

褒められたわけではない。

特別なことを言われたわけでもない。


それでも。

理永が嬉しそうにしている。

ただ、それだけでよかった。


「また、探してきます」


自然に口にしてから、 由良自身が少しだけ驚いた。


理永も、少しだけ目を瞬く。


「……無理はしなくていいですよ」


「無理ではありません」


そう答える。


本当に、無理ではなかった。


むしろ。

理永が必要としているものを探すことは、 いつの間にか苦ではなくなっていた。


それどころか。

次は何を持っていけば、 あの目がまた少しだけ変わるだろう。


そんなことを考えるようになっていた。


――妙なものだ。


そう思う。

けれど、理由を追及するほどではない。

まだ、この感情に名前はなかった。



――――――――――――――――――――


ある日。


理永は、机に向かったまま動かなかった。


本を開いている。

けれど、ページはしばらく変わっていない。


「どうしましたか」


声をかけると、 理永は顔を上げた。


「……分からないの」


「何が?」


「この式が」


紙の上には、複雑な魔法式が並んでいる。


理永は、その一部を指でなぞる。


「理屈では成立するはずなのに、何かが違う」


由良は隣に立った。


紙を見る。

式を見る。


けれど、由良が見ているのは、 それだけではなかった。


理永は、分からないことをそのままにしておけない。


納得するまで考える。

一人で考え続ける。


そして、気づけばすべてを自分の中に抱え込んでいる。


それを知ってから、 由良は少しだけ気にするようになった。


「今日は、ここまでにしては?」


「でも――」


「続きは明日でもできます」


理永が黙る。


視線だけが、式の上を動く。


「……そうね」


ペンが置かれた。

由良は、ほんの少しだけ息を吐く。


それを見ていた理永が、 不思議そうに首を傾げる。


「何?」


「いえ」


答えられない。


あなたが無理をしているのを見ると、 落ち着かない。


そんなことを言う理由も、 まだ分からなかった。





外へ出る。


夕方の光が森を薄く染めていた。


理永は歩きながら、 さっきの式について考えている。


「……やっぱり、あそこを変えたほうがいいかもしれない」


「まだ考えていたんですか」


「気になるから」


「そうでしょうね」


理永が少しだけ笑った。


その横顔を見て、 由良もわずかに目を細める。


この人は、 こういう人なのだと思う。


興味を持ったものから、 簡単には目を逸らさない。


世界の仕組みを知ろうとして、 理解できないものがあれば、 何度でも手を伸ばす。


その姿が、 なぜか好きだった。


――好き。


その言葉が浮かんだ瞬間、 由良はわずかに思考を止めた。


けれど。

すぐには否定しなかった。


まだ、それが何を意味するのか分からない。


ただ。

理永といる時間が好きだった。


声を聞くこと。

隣を歩くこと。

研究の話をすること。

何でもないことで笑うこと。

言葉がなくても、 同じ場所にいること。


そのひとつひとつが、 少しずつ自分の中に残っていく。

それだけだった。


――――――――――――――――――――


ある日。


風に吹かれた理永の髪が、 頬にかかっていた。


由良は、手を伸ばす。

指先で髪をすくう。

理永がこちらを見る。


「……」


何も言わない。

避けることもない。

そのまま、静かに受け入れる。

指先を離す。


けれど。

触れた感覚だけが、 しばらく残った。


――もっと触れたい。


一瞬、そんな思いが浮かんだ。


由良は、それを追わなかった。

今はまだ、 それでいいと思った。


ただ。

隣にいられるなら。


それでいい。




帰り道。


「また来ますか」


そう尋ねる。


理永は、少しも迷わなかった。


「ええ」


短い返事。


それから。


「また来ましょう」


由良は、わずかに目を細める。


約束ではない。

大げさな言葉でもない。


けれど。

その言葉を聞いた瞬間、 胸の奥に何かが静かに残った。


――次がある。


そう思った。

それだけで、 少しだけ嬉しかった。



隣を歩く理永を見ていた。


風が吹く。

髪が揺れる。


その横顔を、 由良は静かに見つめる。


まだ、名前のない想い。


けれど。


それはもう、 消えてしまっても構わないものではなかった。


――この時間を、失いたくない。


その思いだけが。

誰にも告げられないまま、 由良の中に静かに残った。






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