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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(6)遭遇

(視点:由良)


街を出るのは、いつも夜だった。


人の少ない時間を選んで、 荷物をまとめる。

必要なものは、多くない。


少しの食料。 替えの服。 古びた地図。

そして―― 身分を示すものは、何も持たない。


「……」


由良は、最後に一度だけ街を振り返った。


何かを置いてきたわけではない。

誰かと別れるわけでもない。


それでも。

ひとつの場所に長く留まることは、 もうできなかった。


理由は、分かっている。

あの存在が、 また現れるからだ。


由良は、歩き出す。

夜の街道を、 ひとりで進む。

月明かりが、 遠くまで伸びた道を淡く照らしていた。


静かな夜だった。

だからこそ、 周囲の気配がよく分かる。


鳥の鳴き声。 風に揺れる木々。 遠くの獣の気配。


そして。


「……」


ほんの僅かな、 異質な気配。


由良の足が止まる。


振り返る。

誰もいない。


けれど。


――いる。


遠く。

森の向こう。


気配だけが、 静かにこちらを捉えている。


「……またか」


由良は小さく息を吐く。


何度目かは、 もう数えていない。


あの存在について、 由良が知っていることは多くない。


名前も知らない。

何故、自分を追うのかも。


ただ。

何度現れても、 同じことを繰り返す。


――排除しようとする。


由良は、それを感じるたびに、 戦うことを選ばなかった。


戦いになれば勝てるだろう。

少なくとも、 今までの遭遇ではそうだった。


けれど。戦う理由は無い。

得体の知れないものと、わざわざ争う必要もない。

ならば、 逃げればいい。


それだけのことだった。


由良は再び歩き出す。

気配は、 しばらく離れなかった。


けれど、 やがて消える。

由良も、それ以上は気に留めなかった。


――その時までは。





数日後。

由良は山間の小さな町へ入った。


人の少ない町だった。

宿を探して歩いていると、 街の外れにある古い建物の前で足が止まる。


何かいる。

人の気配。

けれど、 普通ではない。


由良が近づくと、 建物の影から一人の男が顔を出した。


「……人間か?」


「ああ」


「一人で来たのか」


「そうだ」


男は、由良をじっと見る。


警戒している。

けれど、 敵意はなかった。


「……お前も、逃げているのか?」


「何から?」


男は、少し黙った。


それから。


「……あれだ」


「……あれ?」


男は周囲を確認するように視線を動かす。


「白い髪の……いや」


言葉を探す。


「人の形をした、何かだ」


由良の目が、 わずかに細くなる。


「……お前も、あれに追われているのか」


男は答えなかった。

代わりに、 小さく頷く。


「俺たちは、ずっと逃げている」


「……俺たち?」


「ああ」


男の後ろを見る。


建物の奥に、 何人かの気配がある。


人間ではない。

けれど、 明確に敵意を持つ気配でもなかった。


「昔は、もっといた」


男が言う。


「この辺りにも、仲間がたくさんいた」


「……今は?」


「少ない」


短い答え。


「少しずつ消えていった」


由良は黙って聞いている。


「理由は分からない」


男は、苦い顔をした。


「ただ……あれに見つかった者は、戻らない」


「……」


その言葉に、 由良はわずかに目を伏せた。


自分も同じだった。

ただ、自分はまだ、 生きている。


「名前は?」


由良が問う。


「……名前?」


「あれの」


男は一瞬黙る。


そして。


「……アストラル」


その名前が、 静かに落ちた。


「俺たちは、そう呼んでいる」


「本人が名乗ったのか?」


「違う」


男は首を振った。


「昔、同じように逃げ延びた奴らがいた」


「その中の誰かが、そう呼び始めた」


「それが、口伝で残った」


由良は、その名前を反芻する。


「……アストラル」


口にしてみる。

それだけだった。


けれど、 名前が付いたことで。

これまで輪郭のなかった存在が、 ほんの少しだけ現実味を持った。


「……何をしてくる?」


「分からない」


「なぜ追われる?」


「それも分からない」


男は首を振る。


「ただ――」


少しだけ声を落とす。


「強いものほど、狙われる」


由良の眉が、 わずかに動いた。


「……強いもの?」


「力を持つ種族」


男は言った。


「俺たちだけじゃない」


「昔は、この近くにも龍がいた」


由良が顔を上げる。


「龍?」


「ああ」


男は遠くの山を見た。


「何頭もいたらしい」


「今は?」


「……見なくなった」


「いつから?」


「分からない」


それ以上は、 誰も知らなかった。


ただ。

かつていたものが、 少しずつ減っている。

それだけ。


由良は、黙って山を見る。


「……そうか」


それ以上、 言葉は続かなかった。





その夜。


由良は町の外れにある廃屋で休んでいた。

眠るつもりはなかった。

気配がある。


遠く。

森の向こう。


「……」


由良は立ち上がる。

月明かりの中。


そこに、 一人の青年が立っていた。

金に近い髪。

群青の瞳。

表情の読めない静かな顔。

感情のない視線。


――アストラル。


由良は、 その名を初めて本人に向けて口にした。


「……アストラル」


青年は、 反応しない。

ただ、 由良を見る。


「……」


沈黙。

由良も動かない。

何度も繰り返した対峙。


けれど。

以前とは、 少しだけ違っていた。


アストラルの視線が、 由良を観測する。


「……観測対象」


それだけ。

由良は小さく息を吐く。


「俺を追ってきたのか」


「確認」


短い返答。


「……そうか」


それ以上、 言葉は続かない。


アストラルの瞳が、 わずかに動く。


「逸脱値、継続」


「……」


由良は、 その言葉の意味を理解できない。


ただ。

以前と同じように、すぐに動く様子はなかった。

由良には、それで十分だった。


由良は一歩、 後ろへ下がった。


アストラルは追わない。

ただ見ている。

観測している。


「……俺は行く」


由良はそう告げる。

アストラルは、 何も答えない。

由良は背を向けた。


歩き出す。


しばらくして振り返る。

そこには、 もう誰もいなかった。





翌朝。


町を出る前に、 由良は昨日の男のいた建物へ向かった。

けれど。


「……」


誰もいない。

扉は開いている。


中には、 荷物が残されていた。

生活の跡。


けれど。

人だけが、 いなかった。


由良はしばらく、 その場に立っていた。


「……」


昨日まで、 確かにいた。


それなのに。

消えた。


由良は、 ゆっくりと目を伏せる。


「……アストラル」

その名を、もう一度口にする。


初めて聞いた時よりも、

その名前は重く感じられた。


そして。

初めて。

自分以外にも、 同じものに追われている存在がいることを知った。


それが何を意味するのか。

この時の由良には、 まだ分からない。


ひとつだけ。

自分が逃げ続ければ、 いつか誰かのように、 消える日が来るのかもしれない。

そんな考えが、 初めて胸をよぎった。


「……行くか」


由良は荷物を背負い。

歩き出す。


逃げるためだけではない。


まだ見ていない世界がある。

まだ知らないものがある。


そして――

いつかまた、 あの小屋へ戻ることも。

その時の由良は、 まだ知らなかった。


この旅の先で。

自分が、ただ逃げるだけではいられなくなることを。


そして。

その時、自分自身の在り方さえ、選び直すことになることを。


由良はただ、 歩き続けた。





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