(6)遭遇
(視点:由良)
街を出るのは、いつも夜だった。
人の少ない時間を選んで、 荷物をまとめる。
必要なものは、多くない。
少しの食料。 替えの服。 古びた地図。
そして―― 身分を示すものは、何も持たない。
「……」
由良は、最後に一度だけ街を振り返った。
何かを置いてきたわけではない。
誰かと別れるわけでもない。
それでも。
ひとつの場所に長く留まることは、 もうできなかった。
理由は、分かっている。
あの存在が、 また現れるからだ。
由良は、歩き出す。
夜の街道を、 ひとりで進む。
月明かりが、 遠くまで伸びた道を淡く照らしていた。
静かな夜だった。
だからこそ、 周囲の気配がよく分かる。
鳥の鳴き声。 風に揺れる木々。 遠くの獣の気配。
そして。
「……」
ほんの僅かな、 異質な気配。
由良の足が止まる。
振り返る。
誰もいない。
けれど。
――いる。
遠く。
森の向こう。
気配だけが、 静かにこちらを捉えている。
「……またか」
由良は小さく息を吐く。
何度目かは、 もう数えていない。
あの存在について、 由良が知っていることは多くない。
名前も知らない。
何故、自分を追うのかも。
ただ。
何度現れても、 同じことを繰り返す。
――排除しようとする。
由良は、それを感じるたびに、 戦うことを選ばなかった。
戦いになれば勝てるだろう。
少なくとも、 今までの遭遇ではそうだった。
けれど。戦う理由は無い。
得体の知れないものと、わざわざ争う必要もない。
ならば、 逃げればいい。
それだけのことだった。
由良は再び歩き出す。
気配は、 しばらく離れなかった。
けれど、 やがて消える。
由良も、それ以上は気に留めなかった。
――その時までは。
数日後。
由良は山間の小さな町へ入った。
人の少ない町だった。
宿を探して歩いていると、 街の外れにある古い建物の前で足が止まる。
何かいる。
人の気配。
けれど、 普通ではない。
由良が近づくと、 建物の影から一人の男が顔を出した。
「……人間か?」
「ああ」
「一人で来たのか」
「そうだ」
男は、由良をじっと見る。
警戒している。
けれど、 敵意はなかった。
「……お前も、逃げているのか?」
「何から?」
男は、少し黙った。
それから。
「……あれだ」
「……あれ?」
男は周囲を確認するように視線を動かす。
「白い髪の……いや」
言葉を探す。
「人の形をした、何かだ」
由良の目が、 わずかに細くなる。
「……お前も、あれに追われているのか」
男は答えなかった。
代わりに、 小さく頷く。
「俺たちは、ずっと逃げている」
「……俺たち?」
「ああ」
男の後ろを見る。
建物の奥に、 何人かの気配がある。
人間ではない。
けれど、 明確に敵意を持つ気配でもなかった。
「昔は、もっといた」
男が言う。
「この辺りにも、仲間がたくさんいた」
「……今は?」
「少ない」
短い答え。
「少しずつ消えていった」
由良は黙って聞いている。
「理由は分からない」
男は、苦い顔をした。
「ただ……あれに見つかった者は、戻らない」
「……」
その言葉に、 由良はわずかに目を伏せた。
自分も同じだった。
ただ、自分はまだ、 生きている。
「名前は?」
由良が問う。
「……名前?」
「あれの」
男は一瞬黙る。
そして。
「……アストラル」
その名前が、 静かに落ちた。
「俺たちは、そう呼んでいる」
「本人が名乗ったのか?」
「違う」
男は首を振った。
「昔、同じように逃げ延びた奴らがいた」
「その中の誰かが、そう呼び始めた」
「それが、口伝で残った」
由良は、その名前を反芻する。
「……アストラル」
口にしてみる。
それだけだった。
けれど、 名前が付いたことで。
これまで輪郭のなかった存在が、 ほんの少しだけ現実味を持った。
「……何をしてくる?」
「分からない」
「なぜ追われる?」
「それも分からない」
男は首を振る。
「ただ――」
少しだけ声を落とす。
「強いものほど、狙われる」
由良の眉が、 わずかに動いた。
「……強いもの?」
「力を持つ種族」
男は言った。
「俺たちだけじゃない」
「昔は、この近くにも龍がいた」
由良が顔を上げる。
「龍?」
「ああ」
男は遠くの山を見た。
「何頭もいたらしい」
「今は?」
「……見なくなった」
「いつから?」
「分からない」
それ以上は、 誰も知らなかった。
ただ。
かつていたものが、 少しずつ減っている。
それだけ。
由良は、黙って山を見る。
「……そうか」
それ以上、 言葉は続かなかった。
その夜。
由良は町の外れにある廃屋で休んでいた。
眠るつもりはなかった。
気配がある。
遠く。
森の向こう。
「……」
由良は立ち上がる。
月明かりの中。
そこに、 一人の青年が立っていた。
金に近い髪。
群青の瞳。
表情の読めない静かな顔。
感情のない視線。
――アストラル。
由良は、 その名を初めて本人に向けて口にした。
「……アストラル」
青年は、 反応しない。
ただ、 由良を見る。
「……」
沈黙。
由良も動かない。
何度も繰り返した対峙。
けれど。
以前とは、 少しだけ違っていた。
アストラルの視線が、 由良を観測する。
「……観測対象」
それだけ。
由良は小さく息を吐く。
「俺を追ってきたのか」
「確認」
短い返答。
「……そうか」
それ以上、 言葉は続かない。
アストラルの瞳が、 わずかに動く。
「逸脱値、継続」
「……」
由良は、 その言葉の意味を理解できない。
ただ。
以前と同じように、すぐに動く様子はなかった。
由良には、それで十分だった。
由良は一歩、 後ろへ下がった。
アストラルは追わない。
ただ見ている。
観測している。
「……俺は行く」
由良はそう告げる。
アストラルは、 何も答えない。
由良は背を向けた。
歩き出す。
しばらくして振り返る。
そこには、 もう誰もいなかった。
翌朝。
町を出る前に、 由良は昨日の男のいた建物へ向かった。
けれど。
「……」
誰もいない。
扉は開いている。
中には、 荷物が残されていた。
生活の跡。
けれど。
人だけが、 いなかった。
由良はしばらく、 その場に立っていた。
「……」
昨日まで、 確かにいた。
それなのに。
消えた。
由良は、 ゆっくりと目を伏せる。
「……アストラル」
その名を、もう一度口にする。
初めて聞いた時よりも、
その名前は重く感じられた。
そして。
初めて。
自分以外にも、 同じものに追われている存在がいることを知った。
それが何を意味するのか。
この時の由良には、 まだ分からない。
ひとつだけ。
自分が逃げ続ければ、 いつか誰かのように、 消える日が来るのかもしれない。
そんな考えが、 初めて胸をよぎった。
「……行くか」
由良は荷物を背負い。
歩き出す。
逃げるためだけではない。
まだ見ていない世界がある。
まだ知らないものがある。
そして――
いつかまた、 あの小屋へ戻ることも。
その時の由良は、 まだ知らなかった。
この旅の先で。
自分が、ただ逃げるだけではいられなくなることを。
そして。
その時、自分自身の在り方さえ、選び直すことになることを。
由良はただ、 歩き続けた。




