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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(10)――穏やかな日々

(視点:由良)


老魔女がいなくなってからも、

季節は静かに巡っていた。


朝になれば陽が昇る。


森には風が吹き、

鳥が鳴く。


木々の葉は色を変え、

やがてまた新しい芽を出す。


世界は何も変わらない。


けれど。


小屋の中だけは、

少しだけ静かになった。


以前から静かな場所だった。


それでも。


聞こえていた声がなくなるだけで、

同じ静けさでも意味が変わる。


理永は時々、

ふと手を止めることがあった。


視線を向ける先には、

何もない。


けれど。


そこに誰かがいるように、

ほんの一瞬だけ見つめる。


由良は、何も言わなかった。


悲しみを忘れる必要はない。


無理に前を向く必要もない。


ただ。


今日を過ごせれば、それでいい。


そう思っていた。


「……由良」


呼ばれて、顔を上げる。


理永が机の向こうから、

一枚の紙を差し出していた。


「これ、見てもらえる?」


「もちろんです」


由良は立ち上がり、

理永の隣へ移動する。


紙には、

いくつもの魔法式が並んでいる。


「ここなんだけど」


理永が指を置く。


「何度やっても、最後で崩れるの」


由良は式を追う。


一つ。


二つ。


順番に確認していく。


「……ここでは?」


「ここ?」


「はい。この式を一度外して、こちらへ繋いだほうがいいかもしれません」


理永はしばらく黙っていた。


それから。


「……なるほど」


ペンを取る。


線を一本消して、

新しい式を書き込む。


少し待つ。


そして。


「……できた」


理永の声が、

ほんの少し弾んだ。


由良は、その横顔を見る。


目が輝いている。


何かを見つけた時の顔。


その表情を見ると、

由良も自然に笑ってしまう。


「よかったですね」


「ええ」


理永は嬉しそうに紙を見つめる。


「やっぱり、あなたがいると早いわ」


「そうですか?」


「そうよ」


何気ない言葉だった。


けれど。


胸の奥に、

小さな温かさが残った。


――こういう時間が好きだ。


由良は、そう思った。


理永と並んで。


一つのものを考えて。


分からなければ一緒に考える。


答えが見つかれば、

二人でそれを喜ぶ。


そんな時間が、

少しずつ増えていた。


――――――――――――――――――――


ベラトリスが街へ行くことも、

以前より増えていた。


「今日もベラトリスはいないんですね」


由良がそう言うと、

理永は本から顔を上げる。


「ええ」


「最近、多いですね」


「そうね」


理永は、それ以上何も言わなかった。


由良も、深くは聞かなかった。


老魔女がいなくなってから、

ベラトリスが一人でいる時間を避けるようになったことには、

気づいていた。


街へ行けば人がいる。


話し声がある。


明かりがある。


きっと、そういう場所にいるほうが、

何かを考えずに済むのだろう。


だから。


帰ってこないことを、

責める気にはなれなかった。


「……そのうち戻ってくるでしょう」


理永が言う。


「ええ」


それだけだった。


そして二人は、

また研究へ戻った。


いつの間にか。


ベラトリスがいない時間も、

二人にとっては特別なものではなくなっていた。


それが、

少し不思議だった。


――――――――――――――――――――


ある午後。


「少し、外へ行きませんか?」


由良が言うと、

理永が顔を上げた。


「採取?」


「はい」


「何か必要なものが?」


「いくつかあります」


理永は少し考える。


「分かったわ」


二人で小屋を出る。


森の中へ入ると、

空気が変わった。


木々の間から差し込む光。


湿った土の匂い。


風に揺れる葉。


理永は歩きながら、

周囲を見回している。


「この辺りだったかしら」


「去年は、もう少し奥でした」


「覚えてるの?」


「ええ」


「よく覚えているわね」


「必要でしたから」


そう答える。


けれど。


本当は、それだけではなかった。


去年。


理永と一緒にこの森を歩いた。


その時に見つけた場所だった。


だから覚えている。


それだけだった。


「……あった」


理永がしゃがみ込む。


小さな薬草。


葉の裏を確認しながら、

慎重に採取する。


「状態がいいわ」


「よかったですね」


「ええ」


理永が笑う。


由良は、その笑顔を見ていた。


薬草を見ているはずなのに。


いつの間にか、

理永の表情ばかりを追っている。


「どうしたの?」


「いえ」


「さっきから見てるけど」


「……何でもありません」


理永は少しだけ首を傾げた。


けれど。


それ以上は聞かなかった。


二人で、また歩き出す。


少し先へ進むと、

理永が突然足を止めた。


「見て」


指差した先。


木々の根元に、

小さな白い花が咲いていた。


「……綺麗ですね」


「去年も見たわ」


「覚えているんですか?」


「もちろん」


理永はしゃがみ込む。


花には触れず、

ただ静かに眺めている。


「去年より少し増えてる」


「本当ですね」


「来年は、もっと増えるかしら」


理永がそう言った。


由良は、

その言葉を聞いていた。


来年。


自然に出てきた言葉。


その先にも、

日々が続いていることを当然のように話している。


「……きっと」


由良は答えた。


「また見に来ればいいでしょう」


理永が顔を上げる。


「ええ」


小さく笑った。


二人は、しばらくその花を眺めていた。


何も特別なことは起きない。


ただ。


森の中で、

小さな花を見ているだけ。


それなのに。


由良には、その時間が心地よかった。




夕方。


小屋へ戻ると、

理永が食事の準備を始めた。


「今日は私が作ります」


「珍しいですね」


「いつも任せているでしょう?」


「そうでしたね」


パンを切る。


スープを温める。


採取してきたものを整理する。


豪華な食事ではない。


けれど。


二人で向かい合って食べると、

それだけで十分だった。


「……これ、おいしい」


理永が言う。


「よかったです」


「少しだけ塩が足りないけど」


「そこは言うんですね」


「だって本当だもの」


理永が笑う。


由良も、思わず笑った。


「次は気をつけます」


「お願いします」


そんなやり取りをしながら、

食事を続ける。


以前なら。


食事は必要だから摂るものだった。


今は。


理永と食べる時間そのものが、

少しだけ好きになっていた。


食べ終われば、

食器を片付ける。


その間も、

理永は研究の話をする。


由良はそれを聞く。


そんな時間さえ、

自然になっていた。




夜。


理永が紅茶を淹れる。


「今日は私がやります」


「珍しいですね」


「そう?」


「ええ」


「いつも任せているから」


カップを差し出される。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


湯気が立つ。


紅茶の香りが、

静かな小屋に広がる。


二人で向かい合って座る。


「……おいしい」


由良が言うと、

理永が少しだけ嬉しそうに笑った。


「よかった」


窓の外では、

夜の森が静かに揺れている。


火の音。


カップを置く音。


紙をめくる音。


何もない時間。


けれど。


不思議と、心が落ち着く。


理永は紅茶を飲み終えると、

机の上の本を開いた。


「少しだけ、続きをやろうかしら」


「まだやるんですか?」


「少しだけよ」


「無理はしないでください」


「分かってるわ」


そう言って、

理永は本へ視線を戻す。


由良も、その隣に座る。


以前なら、

少し距離を取っていた。


今は。


その距離を、

わざわざ意識することもなくなっていた。


紙をめくる。


ペンが走る。


静かな夜。


しばらくして。


理永の肩が、

ほんの少しだけこちらへ傾いた。


由良は顔を向ける。


疲れたのだろう。


けれど。


理永は離れようとはしなかった。


由良も動かなかった。


そのまま。


肩が触れる。


「……眠い?」


「少しだけ」


「寝てもいいですよ」


「……でも、まだ研究が」


「明日でもできます」


理永は少し考えて。


「……そうね」


本を閉じる。


そのまま目を閉じた。


そして。


由良の肩に、

ほんの少しだけ体重が預けられる。


由良は息を止めた。


動けば、

起こしてしまう。


だから。


ただ、そのままでいた。


肩に伝わる、

小さな温もり。


理永の呼吸が、

ゆっくりと落ち着いていく。


由良は、何も言わなかった。


ただ。


その温もりを感じていた。


不思議だった。


以前なら、

誰かにこんなふうに寄りかかられることなど、

気にもしなかっただろう。


けれど。


今は。


離れてほしいとは、

少しも思わなかった。


むしろ。


このまま、

もう少しだけ。


そう思った。


理永の髪が、

頬に触れる。


微かな香りがする。


由良は、動かない。


ただ肩を貸しているだけ。


それなのに。


胸の奥が、

静かに満たされていく。


――温かい。


その言葉が浮かんだ。


火の温度とは違う。


紅茶の温度とも違う。


もっと静かで。


もっと近い。


理永がここにいる。


自分の隣にいる。


それだけのことなのに。


由良は、その事実を大切に思った。


しばらくして。


理永が、ゆっくり目を開ける。


「……寝てた?」


「少しだけ」


理永は、自分が由良の肩に寄りかかっていたことに気づく。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいですよ」


「でも」


「疲れていたんでしょう」


理永は少しだけ視線を逸らす。


「……ありがとう」


「何がですか?」


「分からないけど」


小さく笑う。


由良も、つられて笑った。


それだけだった。


けれど。


その夜の温もりは、

しばらく由良の肩に残っていた。




理永は再び本を開いた。


由良も、その隣にいる。


もう、言葉はほとんど交わさない。


それでも。


気まずくはなかった。


静かな夜。


同じ部屋。


同じ時間。


時々、理永が紙をめくる。


由良はそれを聞いている。


窓の外では、

風が木々を揺らしている。


何も起こらない。


何も変わらない。


ただ。


二人でいる。


それだけだった。


けれど由良には。


そんな何でもない時間が、

少しずつ大切なものになっている気がした。


「……由良」


「はい」


「明日も来る?」


理永が、本から顔を上げる。


由良は少しだけ目を細めた。


「ええ」


迷う理由などなかった。


「明日も来ます」


理永は、小さく笑った。


「そう」


それだけ。


けれど。


由良の胸の奥には、

静かな温もりが残った。


明日も。


またここへ来る。


また理永と話す。


また一緒に研究をする。


森へ行って。


食事をして。


紅茶を飲む。


そんな一日が、

また来る。


それが。


いつの間にか、

当たり前のように思えていた。


由良は、静かに理永を見る。


そして。


その穏やかな時間の中に、

自分がいることを。


ほんの少しだけ、

幸せだと思った。





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