(10)――穏やかな日々
(視点:由良)
老魔女がいなくなってからも、
季節は静かに巡っていた。
朝になれば陽が昇る。
森には風が吹き、
鳥が鳴く。
木々の葉は色を変え、
やがてまた新しい芽を出す。
世界は何も変わらない。
けれど。
小屋の中だけは、
少しだけ静かになった。
以前から静かな場所だった。
それでも。
聞こえていた声がなくなるだけで、
同じ静けさでも意味が変わる。
理永は時々、
ふと手を止めることがあった。
視線を向ける先には、
何もない。
けれど。
そこに誰かがいるように、
ほんの一瞬だけ見つめる。
由良は、何も言わなかった。
悲しみを忘れる必要はない。
無理に前を向く必要もない。
ただ。
今日を過ごせれば、それでいい。
そう思っていた。
「……由良」
呼ばれて、顔を上げる。
理永が机の向こうから、
一枚の紙を差し出していた。
「これ、見てもらえる?」
「もちろんです」
由良は立ち上がり、
理永の隣へ移動する。
紙には、
いくつもの魔法式が並んでいる。
「ここなんだけど」
理永が指を置く。
「何度やっても、最後で崩れるの」
由良は式を追う。
一つ。
二つ。
順番に確認していく。
「……ここでは?」
「ここ?」
「はい。この式を一度外して、こちらへ繋いだほうがいいかもしれません」
理永はしばらく黙っていた。
それから。
「……なるほど」
ペンを取る。
線を一本消して、
新しい式を書き込む。
少し待つ。
そして。
「……できた」
理永の声が、
ほんの少し弾んだ。
由良は、その横顔を見る。
目が輝いている。
何かを見つけた時の顔。
その表情を見ると、
由良も自然に笑ってしまう。
「よかったですね」
「ええ」
理永は嬉しそうに紙を見つめる。
「やっぱり、あなたがいると早いわ」
「そうですか?」
「そうよ」
何気ない言葉だった。
けれど。
胸の奥に、
小さな温かさが残った。
――こういう時間が好きだ。
由良は、そう思った。
理永と並んで。
一つのものを考えて。
分からなければ一緒に考える。
答えが見つかれば、
二人でそれを喜ぶ。
そんな時間が、
少しずつ増えていた。
――――――――――――――――――――
ベラトリスが街へ行くことも、
以前より増えていた。
「今日もベラトリスはいないんですね」
由良がそう言うと、
理永は本から顔を上げる。
「ええ」
「最近、多いですね」
「そうね」
理永は、それ以上何も言わなかった。
由良も、深くは聞かなかった。
老魔女がいなくなってから、
ベラトリスが一人でいる時間を避けるようになったことには、
気づいていた。
街へ行けば人がいる。
話し声がある。
明かりがある。
きっと、そういう場所にいるほうが、
何かを考えずに済むのだろう。
だから。
帰ってこないことを、
責める気にはなれなかった。
「……そのうち戻ってくるでしょう」
理永が言う。
「ええ」
それだけだった。
そして二人は、
また研究へ戻った。
いつの間にか。
ベラトリスがいない時間も、
二人にとっては特別なものではなくなっていた。
それが、
少し不思議だった。
――――――――――――――――――――
ある午後。
「少し、外へ行きませんか?」
由良が言うと、
理永が顔を上げた。
「採取?」
「はい」
「何か必要なものが?」
「いくつかあります」
理永は少し考える。
「分かったわ」
二人で小屋を出る。
森の中へ入ると、
空気が変わった。
木々の間から差し込む光。
湿った土の匂い。
風に揺れる葉。
理永は歩きながら、
周囲を見回している。
「この辺りだったかしら」
「去年は、もう少し奥でした」
「覚えてるの?」
「ええ」
「よく覚えているわね」
「必要でしたから」
そう答える。
けれど。
本当は、それだけではなかった。
去年。
理永と一緒にこの森を歩いた。
その時に見つけた場所だった。
だから覚えている。
それだけだった。
「……あった」
理永がしゃがみ込む。
小さな薬草。
葉の裏を確認しながら、
慎重に採取する。
「状態がいいわ」
「よかったですね」
「ええ」
理永が笑う。
由良は、その笑顔を見ていた。
薬草を見ているはずなのに。
いつの間にか、
理永の表情ばかりを追っている。
「どうしたの?」
「いえ」
「さっきから見てるけど」
「……何でもありません」
理永は少しだけ首を傾げた。
けれど。
それ以上は聞かなかった。
二人で、また歩き出す。
少し先へ進むと、
理永が突然足を止めた。
「見て」
指差した先。
木々の根元に、
小さな白い花が咲いていた。
「……綺麗ですね」
「去年も見たわ」
「覚えているんですか?」
「もちろん」
理永はしゃがみ込む。
花には触れず、
ただ静かに眺めている。
「去年より少し増えてる」
「本当ですね」
「来年は、もっと増えるかしら」
理永がそう言った。
由良は、
その言葉を聞いていた。
来年。
自然に出てきた言葉。
その先にも、
日々が続いていることを当然のように話している。
「……きっと」
由良は答えた。
「また見に来ればいいでしょう」
理永が顔を上げる。
「ええ」
小さく笑った。
二人は、しばらくその花を眺めていた。
何も特別なことは起きない。
ただ。
森の中で、
小さな花を見ているだけ。
それなのに。
由良には、その時間が心地よかった。
夕方。
小屋へ戻ると、
理永が食事の準備を始めた。
「今日は私が作ります」
「珍しいですね」
「いつも任せているでしょう?」
「そうでしたね」
パンを切る。
スープを温める。
採取してきたものを整理する。
豪華な食事ではない。
けれど。
二人で向かい合って食べると、
それだけで十分だった。
「……これ、おいしい」
理永が言う。
「よかったです」
「少しだけ塩が足りないけど」
「そこは言うんですね」
「だって本当だもの」
理永が笑う。
由良も、思わず笑った。
「次は気をつけます」
「お願いします」
そんなやり取りをしながら、
食事を続ける。
以前なら。
食事は必要だから摂るものだった。
今は。
理永と食べる時間そのものが、
少しだけ好きになっていた。
食べ終われば、
食器を片付ける。
その間も、
理永は研究の話をする。
由良はそれを聞く。
そんな時間さえ、
自然になっていた。
夜。
理永が紅茶を淹れる。
「今日は私がやります」
「珍しいですね」
「そう?」
「ええ」
「いつも任せているから」
カップを差し出される。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯気が立つ。
紅茶の香りが、
静かな小屋に広がる。
二人で向かい合って座る。
「……おいしい」
由良が言うと、
理永が少しだけ嬉しそうに笑った。
「よかった」
窓の外では、
夜の森が静かに揺れている。
火の音。
カップを置く音。
紙をめくる音。
何もない時間。
けれど。
不思議と、心が落ち着く。
理永は紅茶を飲み終えると、
机の上の本を開いた。
「少しだけ、続きをやろうかしら」
「まだやるんですか?」
「少しだけよ」
「無理はしないでください」
「分かってるわ」
そう言って、
理永は本へ視線を戻す。
由良も、その隣に座る。
以前なら、
少し距離を取っていた。
今は。
その距離を、
わざわざ意識することもなくなっていた。
紙をめくる。
ペンが走る。
静かな夜。
しばらくして。
理永の肩が、
ほんの少しだけこちらへ傾いた。
由良は顔を向ける。
疲れたのだろう。
けれど。
理永は離れようとはしなかった。
由良も動かなかった。
そのまま。
肩が触れる。
「……眠い?」
「少しだけ」
「寝てもいいですよ」
「……でも、まだ研究が」
「明日でもできます」
理永は少し考えて。
「……そうね」
本を閉じる。
そのまま目を閉じた。
そして。
由良の肩に、
ほんの少しだけ体重が預けられる。
由良は息を止めた。
動けば、
起こしてしまう。
だから。
ただ、そのままでいた。
肩に伝わる、
小さな温もり。
理永の呼吸が、
ゆっくりと落ち着いていく。
由良は、何も言わなかった。
ただ。
その温もりを感じていた。
不思議だった。
以前なら、
誰かにこんなふうに寄りかかられることなど、
気にもしなかっただろう。
けれど。
今は。
離れてほしいとは、
少しも思わなかった。
むしろ。
このまま、
もう少しだけ。
そう思った。
理永の髪が、
頬に触れる。
微かな香りがする。
由良は、動かない。
ただ肩を貸しているだけ。
それなのに。
胸の奥が、
静かに満たされていく。
――温かい。
その言葉が浮かんだ。
火の温度とは違う。
紅茶の温度とも違う。
もっと静かで。
もっと近い。
理永がここにいる。
自分の隣にいる。
それだけのことなのに。
由良は、その事実を大切に思った。
しばらくして。
理永が、ゆっくり目を開ける。
「……寝てた?」
「少しだけ」
理永は、自分が由良の肩に寄りかかっていたことに気づく。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
「でも」
「疲れていたんでしょう」
理永は少しだけ視線を逸らす。
「……ありがとう」
「何がですか?」
「分からないけど」
小さく笑う。
由良も、つられて笑った。
それだけだった。
けれど。
その夜の温もりは、
しばらく由良の肩に残っていた。
理永は再び本を開いた。
由良も、その隣にいる。
もう、言葉はほとんど交わさない。
それでも。
気まずくはなかった。
静かな夜。
同じ部屋。
同じ時間。
時々、理永が紙をめくる。
由良はそれを聞いている。
窓の外では、
風が木々を揺らしている。
何も起こらない。
何も変わらない。
ただ。
二人でいる。
それだけだった。
けれど由良には。
そんな何でもない時間が、
少しずつ大切なものになっている気がした。
「……由良」
「はい」
「明日も来る?」
理永が、本から顔を上げる。
由良は少しだけ目を細めた。
「ええ」
迷う理由などなかった。
「明日も来ます」
理永は、小さく笑った。
「そう」
それだけ。
けれど。
由良の胸の奥には、
静かな温もりが残った。
明日も。
またここへ来る。
また理永と話す。
また一緒に研究をする。
森へ行って。
食事をして。
紅茶を飲む。
そんな一日が、
また来る。
それが。
いつの間にか、
当たり前のように思えていた。
由良は、静かに理永を見る。
そして。
その穏やかな時間の中に、
自分がいることを。
ほんの少しだけ、
幸せだと思った。




