(10)選択
(視点:少女)
世界が、軋んでいた。
耳には何も聞こえない。
けれど、空気そのものが悲鳴を上げているようだった。
由良は青年の前へ立ち続ける。
一歩も退かない。
その背中だけが、少女の視界いっぱいに映っていた。
「由良……。」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
ただ、その背中が答えていた。
――守る。
その意思だけを。
青年は静かに口を開く。
「修正処理。」
短い宣告。
次の瞬間。
研究室の空間が静かに歪む。
青年の前へ、色を失った白が静かに集まり始めた。
金色でもない。 赤でもない。 命の温もりを一切感じさせない、静かな白。
その白は、世界そのものを削り取るような静かな力を帯びていた。
少女は息を呑む。
本能が告げていた。
(……あれは。)
触れてはいけない。
由良も、それを理解していた。
赤い魔力を纏い、迷うことなく踏み込む。
「止まれ!」
叫びと同時に距離を詰める。
青年は動かない。
群青の瞳だけが、静かに由良を映している。
「妨害行動。」
淡々とした声。
「処理を継続。」
光が、ゆっくりと形を成していく。
その瞬間だった。
少女の胸の奥で、小さな鼓動が響く。
――ドクン。
また、この感覚。
懐かしい。
けれど思い出せない。
遠い昔にも、一度だけ感じたような、不思議な気配。
(……この感じ。)
胸の奥が静かに熱を帯びる。
理由は分からない。
それでも。
由良の背中を見つめた瞬間、はっきりと理解した。
(このままじゃ……。)
由良が傷つく。
その未来だけは、嫌だった。
この人を失いたくない。
その想いだけは、誰に教えられたわけでもなく、胸の奥から溢れていた。
少女は静かに息を吸う。
恐くないと言えば、嘘になる。
足は震えている。
心臓も激しく鳴っていた。
それでも。
一歩だけ、前へ踏み出す。
誰にも気づかれないほど、小さな一歩。
由良はまだ気づかない。
青年もまた、動かない。
少女は由良の背中を見つめ、小さく目を閉じた。
(……ごめん。)
その言葉は、声にならなかった。
そして少女は、静かに駆け出した。




