(5)研究の理由
(視点︰ベラトリス)
朝の光が、机の上に落ちている。
紙の束は整えられたまま。
ずれはない。
その前に立ち、ベラトリスはしばらく動かなかった。
「……」
理由は、明確だ。
だが――
言葉にする必要はない。
すべてを伝える必要も、ない。
「来なさい」
静かに声をかける。
背後で、気配が動く。
「はい、師匠」
少女の足音は軽い。
以前よりも、迷いがない。
机の前で止まる。
「……何か、ありましたか?」
問いは自然だった。
警戒も、構えもない。
「ある程度、条件が揃ってきた」
簡潔に告げる。
少女は小さく首を傾げる。
「条件……ですか?」
「君の力だ」
その言葉に、少女の視線がわずかに落ちる。
手元。
無意識に触れかけて、止まる。
「……まだ、分かっていません」
正直な返答。
否定も、誇張もない。
「分かっている必要はない」
即答する。
「分からないまま扱う段階は終わった、というだけだ」
少女は、少しだけ考える。
言葉の意味を、整理するように。
「……つまり」
「研究対象として扱う、ということですか?」
「そうだ」
迷いなく頷く。
沈黙が落ちる。
少女は視線を上げる。
その目には、わずかな違和感があった。
「……今までも、記録はしてましたよね?」
「ああ」
「それと、何が違うんですか?」
質問は、核心に近い。
だが。
ベラトリスは、少しだけ間を置く。
「……踏み込む」
それだけを言う。
少女は、少しだけ眉を寄せた。
意味は分かる。
けれど――
「……危険になる、ってことですか?」
「可能性はある」
否定はしない。
再び、沈黙。
少女は、考える。
手の中の炎。
これまでの実験。
小さな変化。
どれも、危険とは程遠かった。
それでも。
「……」
ベラトリスを見る。
変わらない表情。
揺れない視線。
「……理由を、聞いてもいいですか?」
小さく、問いかける。
ほんの一瞬。
ベラトリスの視線が、わずかに動く。
机の端。
分けられた記録の束。
――触れていないもの。
「……必要だからだ」
短く、答える。
それ以上は、続けない。
少女は、その答えを受け止める。
納得はしていない。
けれど。
「……」
目を伏せる。
考える。
完全に分からないわけではない。
ベラトリスは、無意味なことはしない。
今まで、それを見てきた。
だから。
「……分かりました」
小さく、頷く。
「何をすればいいですか?」
ベラトリスは、わずかに目を細める。
その返答は、想定通り。
そして――
「……まずは、再現だ」
静かに言う。
「君の力が“どう作用しているか”ではなく」
「“どうすれば同じ状態になるか”を探る」
少女は、その言葉を繰り返すように考える。
「……同じ状態」
「はい」
理解は、完全ではない。
だが、方向は見えている。
「対象は限定しない」
「生体、非生体、どちらも含める」
「差異を記録する」
指示は明確だった。
余計な説明はない。
少女は小さく息を吸う。
少しだけ緊張が混ざる。
それでも。
「……やります」
はっきりと答える。
ベラトリスは、頷く。
それで十分だ。
「……無理はするな」
短く、付け加える。
少女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい」
そのまま、机へ向かう。
紙を取り、ペンを持つ。
いつもと同じ動き。
けれど。
空気が、少しだけ違っていた。
ベラトリスは、その背中を見る。
変わらないように見える。
だが。
「……」
ほんのわずかに、視線が長く留まる。
似ている。
そう判断している。
だが、それ以上ではない。
同一性を証明する術はない。
感覚的な一致は、根拠にならない。
目を閉じる。
浮かびかけた思考を、切り分ける。
――あれを見分けられるのは、あの男だけだ。
静かに目を開く。
視線は、もう揺れていない。
「……開始しよう」
淡々と告げる。
少女は振り返らず、短く答える。
「はい、師匠」
それで、十分だった。
研究は、ここから始まる。
理由は、語られないまま。
けれど確かに。
何かを確かめるために。




