(1)戻された時間
灰の塔の朝は、変わらず静かだった。
石壁に差し込む光はやわらかく、
空気は澄み、音は少ない。
――何も、起きていないように見える。
「……」
少女は窓辺に立っていた。
指先に、小さな金の炎を灯している。
ゆらり、と揺れる火は、まだ幼く、けれど確かにそこにある。
その光を見つめながら――
ほんのわずかに、目を細めた。
「……今の、は」
小さく、呟く。
言葉にはならない。
けれど、確かに“何か”が残っていた。
遠い夢のような、
触れかけて、消えた感覚。
手のひらに、何かがあった気がする。
温度。重さ。
それを――離してしまったような。
「……」
首を振る。
分からないものに、意味はない。
そう判断するように。
指先の炎が、わずかに揺れた。
それを見て、少女はいつものように息を整える。
「……まだ、安定してない」
そう言って、机へ戻る。
紙を広げ、ペンを取る。
記録を書く。
その動きに、迷いはない。
けれど。
一行目を書きかけて、
ほんの一瞬だけ、手が止まった。
――何を書こうとしたのか。
分からない。
「……?」
眉を寄せる。
けれど、それもすぐに流した。
重要ではないと、切り捨てる。
「対象:炎の出力調整
状態:安定傾向」
淡々と書き進める。
いつも通り。
何も変わらない日常。
そのはずだった。
扉の向こうで、気配がする。
静かに、開く音。
振り返るより先に、声が落ちる。
「……もう起きていたのかい」
落ち着いた声。
少女は振り向き、小さく頷く。
「うん。少しだけ、試してた」
ベラトリスが、ゆっくりと部屋に入ってくる。
灰色のローブが、床をなぞる。
その視線が、一瞬だけ――少女の手元に向いた。
金の炎。
何も言わない。
ただ、観る。
「……そうか」
それだけを返す。
少女はまた前を向き、ペンを走らせる。
塔の朝は、いつもと同じように流れていく。
けれど。
ベラトリスは、ほんのわずかに目を細めていた。
(……戻っている)
小さく、思う。
時間が、ではない。
記録が、でもない。
もっと曖昧で、
もっと確かなもの。
(切り離されている)
それが正しいかどうかは分からない。
けれど。
少女の背中を見つめながら、
ベラトリスは何も言わなかった。
言う必要がないと、判断している。
まだ――早い。
少女はペンを止め、ふと窓の外を見る。
風が吹いている。
鳥が飛ぶ。
何も変わらない景色。
それを見て、なぜか一瞬だけ――
胸の奥が、わずかに引っかかった。
「……」
理由は分からない。
でも。
その違和感は、すぐに消えた。
指先の炎が揺れる。
それを見て、少女は小さく息を吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、そう呟く。
何も問題はない。
何も、失っていない。
――そう、思った。
そう思うことで、すべてが整う。
灰の塔の朝は、静かに続く。
まるで――
何も起きていないかのように。
けれど。
それでも確かに、何かは始まっていた。




