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第一話 不自然な空白

 危険だと分かっている場所へ、シエンは足を踏み入れた。

 一歩。

 たったそれだけで——祭りの喧騒が、ふっと遠のいた。

 笛も太鼓も、確かに鳴っている。振り返れば、狐や鬼の面をつけた人々が楽しげに行き交っている。

 なのに、すべての音が、薄い膜を一枚隔てたようにくぐもって聞こえる。

 そして——誰一人として、こちらを見ていない。


(……何なの、この店)


 客のいない屋台は、外から見たときよりずっと奥行きがあった。

 軒下から壁の奥まで、隙間なく仮面が並んでいる。

 笑う老人。泣く子供。牙を剥く虎。角を持つあやかし。名前すら知らない、鱗や羽に覆われた『何か』。

 どれひとつとして、祭りの安っぽい張り子には見えなかった。

 灯はない。それなのに、仮面の目だけが、暗がりの中で濡れたように光っている。

 シエンは外套の内側へ手を入れ、指先で確かめた。

 短刀。取引の帳面。布で包んだ、髑髏の破片。

 ——すべて、ある。

 退路は背後にひとつ。左右は天井まで積まれた仮面棚。奥には黒い垂れ幕が下がり、その先は闇に沈んで見えない。


 店主の姿は、どこにもなかった。


(帰るなら……今)


 そう思った瞬間、左脇腹に鋭い痛みが走った。


「っ……」


 街道で剣先を受けた傷だ。浅い。だが止血の布にはじわりと血が滲み、歩くたびに傷口が開いている。分銅を二度受けた頭も、脈に合わせて深く痛んだ。

 さらに、砦を襲ってからの四日間、まともに眠れていない。追いつかれないために進み続けた代償が、今になって全身へ重くのしかかっていた。

 顔に巻いた布は左の視界を塞ぎ、息をするたびに唇へ張りつく。


(この状態で、次の追手と戦うのは……無理ね)


「——左が見えないと、ずいぶん戦いにくいだろうね」


 声は、屋台の奥からした。

 シエンは短刀を抜き、振り向いた。

 背後には、誰もいない。


「傷も開いている。頭痛もひどい。よくここまで歩いてきたものだ」


 今度は、正面。

 黒い垂れ幕の脇に——いつの間にか、男が立っていた。

 三十前後に見える、驚くほど目立たない男だった。中肉中背。黒髪。穏やかな目元。街ですれ違えば、二度と思い出せない類の顔。

 男はシエンの短刀を見ても、まるで意に介さず歩み寄ってくる。


「そこまで」


 刃先を、喉へ向ける。

 男は素直に足を止めた。


「布は、外していないわ」

「見れば分かる」

「では、なぜ傷の場所を知っている」

「歩き方が右へ寄っている。左側の客と三度ぶつかりそうになった。脇腹を庇って歩幅も狭い。頭痛は——」


 男は、自分のこめかみを指先で軽く叩いた。


「分銅で殴られたなら、当然だ」


 シエンの指に、力がこもる。


「……見ていたの?」

「いや」

「なら、どうして分銅だと分かる」

「剣で、その割れ方はしない」


 男の視線が、すっと外套の内側へ向いた。まるで、布に包んだ髑髏の破片を見透かすように。


「血も、まだ鉄の臭いを残している」


 シエンは刃先を下げなかった。


(観察で傷を見抜いた。それ自体は……理解できる。だが、不可解なことも多すぎる——気に入らない)


 髑髏を砕いた武器の種類まで知っているのは不自然だ。この男は、観察だけでは説明のつかない『何か』を隠している。


「あなたは、誰?」

「店主だよ」

「名前を訊いた」

「ユエン」

「ここは何?」

「見ての通り、面屋だ」

「——誰にも見えていない店が?」


 ユエンは初めて、口の端だけでわずかに笑った。


「君には、見えている」

「答えになっていない」

「なら、質問を変えるといい」


(……気に入らない)


 今すぐ出ていくべきだ。頭では分かっている。

 だが、外の露店に並ぶ面は、どれも戦いには耐えない。

 シエンは短刀を構えたまま、告げた。


「丈夫な仮面が欲しい。走っても外れず、刃を受けても割れないもの」

「刃を受ければ、大抵の面は割れる」

「なら、帰る」

「だが——ここにある面は、大抵ではない」


 背を向けかけた足が、止まった。

 ユエンはシエンではなく、棚にずらりと並ぶ仮面たちを見ていた。


「もっとも、君に渡せるかどうかは、別の話だが」


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