幕間 -月に顔があったころ-
むかしむかし。
夜空の月には、たいそう美しい顔がありました。
まだこの世に、新月というものがなかったころのお話です。
月の神さまは、毎晩、銀の竪琴を抱いて空へ昇りました。やわらかな音が降りそそぐと、泣いていた赤ん坊は涙を止め、怒っていたものは怒りを忘れました。
「おやすみ。夜は、傷ついたものが休むためにあるのだから」
だれもが月の神さまを見上げました。けれど月の神さまは自慢ひとつせず、みんなが安らかに眠れるよう、毎晩、竪琴を奏でました。
そんな月の神さまに、一匹の銀狐が仕えていました。
新雪より白い毛並みは、星の光を受けると銀色にきらめき、地上の人も、森の獣も、口々にほめたたえました。
「きっと、この世でいちばん美しい生き物だ」
銀狐も、そう信じていました。
けれど、月へ帰るたびに思い知らされるのです。月の神さまのそばでは、自慢の毛並みも、夜明け前の霜のようにかすんでしまうことを。
「銀狐も美しい。でも、月の神さまは、もっと美しい」
初めのころ、銀狐は「あのお方は、わたしの主ですから」と誇らしげに答えました。
けれど長い年月が流れ、山に幾度も雪が積もっても、地上から聞こえる声は同じでした。銀色の胸の奥に生まれた黒い染みは、月の神さまがほめられるたびに広がり——やがて、心をすっかり覆ってしまいました。
——あの顔さえなければ、わたしが世界でいちばん美しい。
ある夜のこと。銀狐は月の神さまの前へ進み出ました。
「あなたさまのお顔を、一夜だけ貸していただけませんか。あなたさまと同じ目で、地上を見守ってみたいのです。夜明け前には、かならずお返しします」
月の神さまは、それを素直な憧れだと思いました。銀狐は気の遠くなるほど長く、雨の夜も雪の夜も、そばで仕えてきた者だったからです。
「一夜だけですよ」
「はい。かならず」
銀狐は深く頭を下げました。——その口もとは、笑っていました。
月の神さまが目を閉じると、顔に手を伸ばして、そっと外しました。触れたのは頬でも皮膚でもなく、月を月の神さまとして世界に見せていた、たったひとつの顔でした。
銀狐は、長いあいだ、その顔に見とれていました。
やがて星がひとつ、またひとつと消え、東の空が白み始めました。
「約束です。返しなさい」
「嫌です」
銀狐は月の顔を自分の影へ隠し、地上へ駆けだしました。
「この顔がなければ、あなたはもう美しくない。今度こそ、わたしが世界でいちばん美しいのです」
顔を失った月の神さまは、信じたものに裏切られたことが悲しくて、恥ずかしくて、夜空の奥深くへ姿を隠しました。
世界から、月が消えました。人々はその夜を「新しい月を待つ夜」——「新月」と呼ぶようになりました。
やがて朝が来ると、月の神さまの姉である太陽の神さまが、弟の身に起きたことを知りました。その姿を見たものはいません。ただ、逃げる銀狐にだけ、声が届きました。
「返せ」
ひと言で山々が震え、銀狐の足もとから影が消えました。それでも銀狐は返さず、暗い影の下へ逃げ込みました。
夕暮れに降った大粒の雨は、顔を失った弟を思う、太陽の神さまの涙だといわれています。
だから昔の人は、子どもたちにこう言い聞かせました。
美しい顔だけで、そのものの心まで決めつけてはいけないよ。
借り物の顔だって、やさしく笑うことがあるのだから。




