第六話 仮面祭り
シエンは膝をつき、髑髏の破片へそっと手を伸ばした。
一番大きな欠片を、ひとつ拾い上げる。
たったそれだけで、指先が白い粉にまみれた。
(……もう、仮面としては使えない)
頭では分かっている。分かっていても、その場から離れられなかった。
瞼の裏に、老夫婦の顔が浮かぶ。
あの日——灰の中からこの髑髏を拾い上げたとき、他には何ひとつ持ち出せなかった。家も、武器も、二人の遺品さえも。
この仮面だけが、里と自分を繋ぐ、最後の糸だったのに。
夜空に残る黒煙が、ゆらりと揺れた。
(——発見の合図。追手が、来る)
ここに留まれば、形見だけでなく、命も帳面も奪われる。
シエンは一番大きな破片だけを布で包み、懐へ収めた。すべてを拾う時間はない。地面に残った白い欠片から、無理やり——本当に無理やり、目を引き剥がした。
仮面の代わりに、布を顔へ巻きつける。
途端に、左の視界が狭くなった。息をするたび、布が唇に張りつく。強く結べば頭が痛み、緩めれば歩くだけでずれ落ちる。
(これじゃ、戦えない……)
次に襲われれば、片手で布を押さえながら短刀を振るう羽目になる。
外套の内側へ手を入れ、帳面の感触を確かめた。
九つの影の印。姉に繋がるかもしれない、初めての物証。
(形見を失ってまで守ったんだもの。……絶対に奪わせない)
シエンは、街道を進んだ。
空は、まだ暗い。夜明けまでは、いくらか間がある。
歩きながら脇腹の布を巻き直し、水を飲む。足だけは、止めない。同じ場所へ長く留まれば、追手に追いつかれる。
やがて前方から、提灯の灯がいくつか近づいてきた。
荷を背負った、近郷の者らしい一団だった。
奇妙なことに——皆、狐や鳥の仮面を、頭の横にちょこんとつけている。
「……この先に、街があるの?」
布越しに問うと、旅人の男が振り返った。
「ああ。仮面祭りの晩だからな。夜っぴて騒いで、夜明けの鐘で面を外すんだ。俺たちはこれから最後のひと稼ぎさ」
「仮面……祭り?」
「知らないのかい? 街中の人間が面をかぶるんだ。素顔だと悪い精に見つかる、なんて昔話があってさ」
男は自分の狐面をひょいと持ち上げてみせた。
「ま、今じゃ酒を飲む口実だけどな。姉ちゃんも祭りに行くなら、布より面のほうがいいぜ。そんな格好じゃ、かえって目立つ」
——言われなくても、分かっていた。
(街の全員が仮面をつけている……なら、顔を隠したまま、新しい仮面を探せる。帳面の符丁についても、調べられるかもしれない)
追手を人混みへ招き入れる危険はある。それでも、布一枚で山を逃げ続けるより、よほど生き残る目があった。
「街は、どちら?」
「この道をまっすぐだ。ほら、灯が見えるだろ」
街道の遥か先——まだ明けない夜空が、ぼうっと赤く染まっていた。
祭りの灯が、雲の腹を焙っているのだ。
シエンは一団から距離を取り、その灯を目指した。
夜明け前の暗さが残るうちに、シエンは街の門をくぐった。
その瞬間。
——別世界が、広がっていた。
街は、仮面で溢れ返っていた。
狐。虎。鳥。鬼。大人も子供も色鮮やかな面をかぶり、笛と太鼓の音に合わせて通りを練り歩いている。軒から軒へ渡された無数の灯籠がゆらゆらと揺れ、香ばしい焼き肉と甘い菓子の匂いが夜気に溶けていた。
脇腹の傷は歩くたびにずきずきと痛み、頭の奥では二度受けた衝撃がいまだに脈打っている。四日分の疲労が、絶えず身体を地面へ引きずり下ろそうとしていた。
「お父さん、どーっちが私かわかる?」
同じ猫面をかぶった姉妹が、父親の周りをくるくると回る。
「こっちだ!」
「ざんねーん、そっちは妹!」
明るい笑い声が弾けた。
恋人たちは互いの面を交換して笑い合い、子供たちは鬼の面で大人を驚かせては逃げていく。
——彼らは、顔を隠すことを楽しんでいる。
飽きれば外し、素顔を見せ合って、また笑う。彼らにとって仮面は、遊び道具なのだ。
(私にとっては……顔を見られずに呼吸するための、壁なのに)
「そこの姉ちゃん、その布は何の仮装だい?」
面売りの男に声をかけられ、周囲の客が一斉に振り返った。
シエンは布を押さえ、逃げるように人波の奥へ進む。
人混みは、身を隠してくれる。——だが同時に、誰の視線が自分に向いているのか分からなくなる。
肩が触れるたび、身体がびくりと強張った。布がずれていないか確かめる。頭巾を、さらに深く引き下ろす。
露店には、いくつもの仮面が並んでいた。
薄い木の面。張り子の面。布の面。どれも色鮮やかで美しく——そして、どれひとつとして戦いには向かない。
「もう少し、丈夫な物はない?」
「あんた、祭りの面に何を求めてるんだい」
店主に呆れ顔で笑われ、シエンは次の店へ向かう。
数軒を回った。だが、顔全体を隠せる面は、どれも留め紐が細すぎる。走ればずれるし、剣を受ければ一撃で割れるだろう。
焦りが、じわじわと胸の奥に広がっていく。
空にはもう、あの黒煙の目はない。
——だからこそ、追手がどこまで迫っているのか、分からない。
足を止めたら、見つかる。そんな気がした。
そのとき、だった。
賑わう二つの店の間で——人の流れが、不自然に歪んでいた。
誰も立ち止まっていない。それどころか、道行く人々は『何か』を避けるように、すいすいと左右へ分かれていく。
なのに、そこへ視線を向ける者は、ただの一人もいない。
酔った男が真ん中へ踏み込みかけ、ふっと無意識に身体を逸らした。笑いながら歩く恋人たちも、まるで見えない壁があるかのように、同じ場所だけを避けて通り過ぎていく。
人の波の中に——ぽっかりと、穴が開いていた。
シエンは、足を止めた。
店と店の隙間に。
ひっそりと、暗い屋台があった。
呼び込みの声はない。灯りのひとつもない。
軒下には——人とも獣ともつかない、無数の仮面がずらりと吊り下げられている。
祭りに集う誰もが、仮面を見て、仮面をかぶり、仮面ではしゃいでいる。
なのに、その面屋だけは。
——誰にも、見られていない。
人波が、背中を押す。
(危険……)
本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。近づくべきではない、と。
それでも——新しい仮面が、要る。
そして。
祭りの中でただ一人。
シエンの目だけが、その暗がりから、離れられなくなっていた。




