第一話 敵の終わりを確かめる
夜明けの光が、支部の石壁を灰色に染め始めていた。
シエンは、ラゴウの骸の前に膝をついた。
夜のうちは篝火の陰でただの黒い山だったものが、朝の光の下では、輪郭の隅々まで容赦なく晒されている。
毛皮に覆われた巨大な胸。人の胴ほどもある前肢。半ば開いた顎から覗く、黄ばんだ牙。
確かめる。
呼吸——ない。毛の流れは、風にしか揺れない。
脈——ない。厚い毛皮の下へ指を押し込んでも、返るものは何もなかった。
喉の傷は深く、正確に、命へ届いている。人の姿で刺した場所と、寸分違わぬ一点。
指先で外皮に触れると、そこにはまだ、巌鎧功の岩めいた硬さが残っていた。
(……それでも、死んだ)
少し離れた石畳に、大鉞が転がっている。
身体が変わったとき、留め具ごと弾き飛ばされたのだろう。腹帯も、肩の防具も、破れた衣の切れ端と一緒に散らばっていた。
——身につけていた物だけが、人だったころの形のまま残っている。
十一年前、この手が村を焼かせた。姉を運ばせた。五歳の自分を、川へ払い落とした。
その手は、もう二度と動かない。
(燃えた村と、今のこの静けさは……別のもの)
炎の記憶は、消えない。だがそれは、目の前の死体とは、もう繋がっていない。
過去は過去の場所へ。死者は死者の場所へ。
シエンは懐から、布に包んだ髑髏の破片を取り出した。
白い欠片を、朝日に透かす。
(父さん。母さん。爺ちゃん、婆ちゃん。……一人、終わったよ)
祈りは、短くした。
沈み込むには、まだ早い。生きている者たちの後始末が、山ほど残っている。
シエンは破片を包み直し、立ち上がった。
脇腹が痛んだ。——生きている証拠だった。
「照合を始めよう」
ユエンが、鳥舎の前へシエンを呼んだ。
籠の中には、灰色の羽の鳩が、行儀よく並んでいる。
「まず、鳥からだ。灰羽鳩は十四羽——ゆうべはひと晩、眠ってもらった。今朝は全員、籠の中で豆をつついている。放出口は板で塞ぎ、発ち口の枠はこちらで預かったままだ。予備の封書は六通。前日の帰還記録とも数を突き合わせたが……一羽も、欠けていないよ」
「……殺したほうが、確実だったんじゃない?」
「私が言うのも何だが、夜に眠るものを手に掛ける趣味はなくてね。それに——あの鳩たちの翼は、『西方第三中継所』への道を覚えている。生きていれば、いずれ道標になる」
「日没の定時報告は?」
「昨日の分は、警報騒ぎで飛ばされていない。記録にも残っている」
ユエンは、指を折りながら続けた。
「正門の出入記録——最後に門を出たのは、事故を報せた巡回の伝令。以後、封鎖まで出入りなし。伝令馬は八頭、全て厩に在り。捕虜の救援要請に使った一頭は、県衙側で確認できる」
「狼煙は」
「四つの台、すべて燃料は濡れたまま。未使用」
「裏の搬出口は」
「施錠を確認した。鍵はここに」
「徒歩で抜けた者は」
「美姫を見ていない残党が、壁を越えて逃げた。……だが彼らが知っているのは『支部が潰された』ことだけだ」
シエンは、頷いた。
(そして、緊急の書状は——二通とも)
昨夜、内容を検めてから、篝火で灰にした。書かれていた文言は、二人の頭の中にだけ残っている。
『真の器、発見』——。
その言葉が向かうはずだった西方第三中継所へは、鳥も、人も、火も、何ひとつ出ていない。
「結論を言おう」
ユエンが、静かに告げた。
「『真の器』の情報は、この支部から一歩も外へ出ていない。真相に辿り着いたのは、ラゴウただ一人。——そのラゴウは、死んだ」
「……つまり、ダージは」
「君のことを、何も知らない」
シエンは、自分の頬に触れた。
平凡な女の顔。その下で眠る、美姫の顔。
(この顔の意味を知る者は、世界に——私と、あなただけ)
情報の差は、武器になる。
今はまだ小さな、けれど確かな、こちら側の武器に。




