第四話 届かなかった報告
背後で、筆が紙を掻く音がしている。
岩のような指には不似合いなほど、速い。一字ごとに叩きつけるような運びだった。
シエンは床へ膝をついたまま、静かに息を整えた。
厚い扉の内側には、いまラゴウと自分の二人きり。この巨体は、部下を全員遠ざけた。『この女は、俺が見る』——そう吠えて。
だが、書状は誰かに運ばせねばならない。
(自分で言ったのよ。……『書状はすぐ持たせる』と)
つまり、この扉は。
この男自身の命令で、内側から開けられる。
筆の音が、止まった。
紙を二つに折る音。続いて、灯へ蝋をかざす、焦げた匂い。
(——封をした)
廊下を、足音が近づいてくる。
(来た)
厚い板戸が、外から引き開けられた。
廊下の灯を背にして飛び込んできたのは、若い伝令兵だった。
「ラゴウ様! 書状を、お預かりに参りまし——」
言葉が、途中で止まる。
書状を受け取ろうと差し出した手が、宙で止まった。
机の前ではない。
その奥、床へ膝をついている女へ——伝令兵の目が、吸い寄せられていく。
乱れた黒髪が、頬の線をなぞって落ちている。
埃も、返り血も、床にこびりついた汚れも——そこに在るはずのものが、なぜか目に映らない。
部屋の灯りが、その一点だけを選んで照らしているように見えた。
汚れた床の上で、その頬から喉へかけての白さだけが、別の世界の物のようだった。
伏せられていた睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
——瞳は、夜の色をしていた。
視線が、合った。
「……あ……ああ……」
若い兵の喉から漏れたのは、もう言葉ではなかった。
走ってきた用件も、受け取るべき書状も、ラゴウという恐ろしい存在すら、頭から抜け落ちている。
息を継ぐのが惜しい。瞬きひとつで、この一瞬が減る。
——そう思い込んだ者だけがする、無防備な顔だった。
兵であることを忘れた指から、力が抜けていく。
ラゴウが、封じたばかりの書状を握ったまま振り返った。
「見るな——!!」
遅い。
「——武器を捨てて」
シエンの声が、甘い蜜へ群がる蟻のように、若い兵の心を蝕んでいく。
「鳥舎へ近づかない。正門へも、狼煙台へも。その場から、動かない」
「……はい」
伝令兵の膝から、力が抜けた。
(——今)
シエンは、床を蹴った。
狙うのは、開いたままの扉。だがその手前には、机と——振り返った巨体が立ち塞がっている。
「逃がさん!」
書状を握ったままの腕が、横薙ぎに伸びた。
(狭い部屋。大きすぎる身体。……そして、あなたは私を『壊せない』)
シエンは身を沈め、机の下へ滑り込んだ。
巨体には決して潜れない、膝丈の隙間。
掴み損ねた腕が天板を払い、机が壁へ砕ける。頭上を破片が飛び越えていった。
転がり出た、その鼻先へ——魅了に崩れ落ちる伝令兵の身体が、ゆっくりと倒れ込んでくる。
巨体と、扉の間へ。
生け捕りたい獲物と、邪魔な部下。
ラゴウの足が、半歩ぶんだけ迷った。
——その半歩で、充分。
シエンは、戸口を抜けた。
「小娘ェ……!!」
背後で、戸枠が肩ごと砕かれる音がした。
指揮所の中は、窓のない板張りの廊下だった。灯りは、壁の掛け燭がまばらにあるきり。
その暗がりの奥から、騒ぎを聞きつけた兵たちが駆けつけてくる。
「おい! 一体何が——」
先頭の男が、言葉を失った。
その後ろの男も。さらに後ろも。
——見てしまった者から、順に。
「私を見た男は全員! 武器を捨てて止まれ! 鳥舎と正門と狼煙台へ近づくな!」
廊下で、武器の落ちる音が続いた。
(顔を見ていない者には、届かない。……でも)
武器を捨てて立ち尽くす男たちが、人ひとりぶんの幅しかない板廊下を塞いでいく。
——見た者が、壁になる。
「小癪な……!」
廊下を埋めたのは、ラゴウ自身の部下たちだ。薙ぎ払えば道は開く。だが生け捕りの獲物は、その人垣の向こうで消える。
ラゴウは追うのをやめ、書状を握りしめたまま、逆へ身を翻した。
「なら——先に、飛ばすまでよ!」
指揮所の裏口が、肩ごと弾き飛ばされる。
鳥舎へと続く中庭へ、巨体が躍り出た。
(——行かせない)
シエンも走った。
立ち尽くす男たちの間を縫い、板廊下を駆け抜ける。
「止まれと言ったのを、取り消すわ! 全員、中庭まで出て——そこで止まって!」
背後で、いくつもの足音がいっせいに動き出した。
突き当りの正面戸口を肩で押し開けると、屋内の澱んだ空気が、いっぺんに夜へ変わった。
篝火。石畳。四隅の見張り台。頭上には、雲の切れた夜空。
中庭の反対側で、裏口を破ったばかりの巨体が土煙を上げている。
——だが、その眼前に。
夜空を背にして、鳥舎の屋根から降り立つ影があった。
「残念だが」
ユエンだった。両手に、木組みの格子枠を抱えている。
——鳥舎の屋根から丸ごと引き抜かれた、鳩の発ち口だ。
外されたあとの開口には、すでに厚板が二重に打ちつけてある。塞いだ上で、組み直しに要る枠そのものを持ち去った。今夜のうちに直す術は、もうない。
道理で、この男は屋根から動かなかったわけだ。
「今夜の空は、貸し切りだ」
「貴様……!」
「鳥は全羽、籠の中で眠っている。……子守唄のひとつも聞かせてやればね」
ユエンは、喉の奥で短く旋律をなぞってみせた。
それきり、口を閉じる。
「羽音ひとつ、立てさせない」
ユエンの声は、歌うように静かだった。
「殺せば早い、とは思ったがね。——彼らは文字も読めん、ただの配達人だ。手に掛ける理由がない」
ユエンは、枠を地面へ置いた。
「裏の搬出口も封じた。鍵は倉番頭から預かった。……あの男も、いい夢を見ているよ」
シエンの視線が、ユエン、鳥舎、ラゴウへと移っていった。
鳥が眠り、倉番が眠り、機構室の兵が眠ったのなら……。
「ラゴウを、眠らせられないの?」
「無理だな」
即答だった。試すまでもない、という声の置き方だった。
「あれは九影だ。人と違う者たちだ。——今の私の声で眠らせられるのは、それを欲する者だけだよ」
岩のような巨体が、ゆっくりとこちらを向く。
「試してみたらどうだ?」
嗤っていた。
挑発ですらない。蚊の羽音を許すような、余裕の底からの声。
「……やめておこう」
ユエンは、あっさり引いた。
「歌えば、君まで眠ってしまう」
(——そういうこと)
シエンは短刀を握り直した。
この巨体を止められる声は、この場にない。
「正門は!」
シエンが叫ぶ。
「押さえました!」
答えたのは、兵ではなかった。
解放された捕虜たち——その先頭で、年かさの男が門閂へ縄を巻いている。
「馬も全部、こっちです! 狼煙の油と薪は、水をかけました!」
(鳩。裏口。門。馬。狼煙——)
四つの道が、ひとつずつ、閉じていく。
「おのれ……おのれぇ……!」
ラゴウの手の中で、二通の書状がひしゃげた。
ユエンが、静かに歩み寄る。
「その紙は、預かろう」
「——渡すと思うか!」
答えは、拳だった。
石畳が砕け、ユエンの立っていた場所に穴が空く。
避けたのではない。ユエンは、その一撃を横へ受け流していた。
「私は、面屋でね」
——だから。
「奪うのは、彼女の仕事だ」
巨腕を振り抜いた、その一瞬。
脇の下が、開いた。
シエンは、地を這うように踏み込んでいた。
狙いは喉ではない。——指だ。
握り込まれた拳の、親指の付け根。短刀の柄頭を、そこへ叩き込む。
「ぐっ——」
握力が、飛んだ。
二通の書状が、宙へ散る。
「させるかァ!」
伸びた腕を、シエンは掻い潜った。
落ちてくる紙を、跳ねながら二通ともつかむ。着地の衝撃が、脇腹の傷を裂いた。
それでも、指は離さない。
『真の器、発見。十一年前の谷の妹。美姫の顔と力を——』
一行だけ読んで、篝火へ投げ込んだ。
「やめろォ!!」
初めて、その声から余裕が消えた。
炎が、二通をまとめて呑む。
ユエンが確保していた予備の封書も、同じ火の中へ落ちた。
「……確認する」
ユエンが指を折る。
「鳥舎、十四羽、全て在。放出口、封鎖。緊急封書、二通とも確保、焼却。裏口、施錠。正門、捕虜が確保。馬、八頭全て在。狼煙、燃料は濡れて使用不能。徒歩の伝令——」
「出ていない。門の出入りは、巡回の伝令が最後」
「——では、確定だ」
ユエンは、顔を上げた。
「『真の器』の情報は、この支部から、一歩も外へ出ていない」
シエンは、長く、息を吐いた。
真相へ辿り着いたのは、世界でただ一人。
——目の前の、この男だけ。
「……終わりよ、ラゴウ」
シエンは、巨体を見上げた。
「武器を捨てなさい」
言葉は、夜気に落ちて消えた。
それだけだった。
男たちを跪かせた声が、この巨体には、爪の先ほども届いていない。
「無駄だ」
ラゴウが、嗤った。
「お前の声は、人間の男を釣る糸だろう。……俺には、絡まんぞ」
「……知っているのね。この顔のことも、力のことも」
「知っているとも。誰よりもな」
大鉞が、地面へ落とされた。
——命令ではない。この男が、自分で捨てたのだ。
「殺すには、これは向かん。……お前は生きたまま、あの方の御前へ運ぶ」
素手の指が、ゆっくりと開かれる。丸太のような十本の指。
(——捕まえる気)
シエンの背筋を、冷たいものが走った。
それは同時に、この巨体が唯一こちらへ差し出した隙でもあった。
(殺すつもりなら、届かなかった。……でも、捕らえるつもりなら)
シエンは、短刀を抜いた。
——そして、目を閉じない。
潜入の昼、記録棟の前で見たものを思い出す。
——膝当て。肘当て。継ぎ目の油。
(全身が岩なら、装具は要らない。硬いのは面。曲がる場所には、継ぎ目がある)
そして、今夜の戦いで見たものを。
——あの巨体が腕を大きく伸ばし、獲物へ手を伸ばすとき、顎が上がり喉の付け根の皮が伸びる。
(あそこだけ、装具がなかった)
一歩。
巨体が、間合いを詰めてくる。
篝火に踏まれた影が、伸びてシエンの膝まで届いた。中庭の石畳が、その一歩ごとに低く軋む。
背後は壁。左右には、武器を捨てたまま立ち尽くす男たちの人垣。
逃げ道を探すまでもなかった。——この巨体は、狩りの終わりを知っている足取りで歩いてくる。
「言っておくが、抗うだけ無駄だ」
その声には、もう怒りすらなかった。
「——あの谷の人たちにも、そう言ったの」
「さあな。覚えておらん」
丸太のような指が、宙で軽く握られ、また開く。
運ぶ荷の重さを測るような手つきだった。
(……時間なら、稼げる)
シエンは、動かなかった。
訊けるのは、いましかない。
「一つだけ、答えて。——姉は、今、どこにいるの」
巨体の歩みが、止まった。
「北へ送った。その先は知らん」
そして、岩のような口元だけが、歪む。
「……だが、教えてやろうか。『適合が浅い』と返された器の出来損ないが、十年も生かされていると思うか?」
心臓を、直に掴まれた気がした。
(——餌)
見え透いている。乗れば足が出る。出れば、あの掌が届く。
怒りで踏み込めば、街道の夜へ逆戻りだ。罠へ飛び込み、証拠を焼かれ、髑髏を砕かれた——あのときの自分に。
「……そう」
シエンは、それだけ返した。
声も、指先も、震えさせない。
(姉さんの答えは、この男の口からは出ない。……なら、必要なことは今夜を生き延びること)
視線を落とさず、間合いだけを測る。
一歩では、届かない。二歩でも、あの腕の内側。
(だから——あなたに、動いてもらう)
だが、その一瞬を作るには、時間が要る。
シエンは、視線だけを走らせた。
篝火の輪の外——指揮所の戸口から、中庭を巡る回廊にかけて。
命じたとおり屋内から出て、そこで足を止めた、二十を超える男たち。
武器はすでにない。全員が石畳へ並び、身じろぎもせず立っている。
——そして全員が、シエンだけを見ている。
命じられたから止まっているのではない。彼女の言葉に従えていること自体が嬉しくて、瞬きすら惜しんでいるのだ。
(……使える)
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
彼らの手に、もう武器はない。自分が捨てさせた。
あの巨体へ向かわせれば、何人かは——確実に。
(分かってる)
それでも、背後には逃がしたばかりの人たちがいる。夜道を走っている女がいる。
ここで負ければ、全部が無駄になる。
シエンは、息を吸った。
「——そこで止まれと言ったのを、取り消すわ」
美姫の声が、夜気を撫でた。
シエンに集まっていた視線が、いっせいに輝きを増した。
篝火の届かぬ闇の底から、たった一点の灯へ手を伸ばす——冷えきった亡者が、生者の明かりに焦がれるような顔だった。
「あの男を、掴んで。腕でも、足でも、外套でもいい。……ただし」
ひと呼吸、置く。
「殺そうとしないで。倒そうともしないで。掴むだけ。……そして、私が『離れて』と言ったら、その瞬間に手を放して。——いい?」
「はい——!」
返事は、歓声だった。
命じられたのではない。願いを聞き届けてもらったのだと、信じきった声。
丸腰の男たちが、笑いながらラゴウへ向かって走り出す。
「な——貴様らぁああああ!!」
初めて、ラゴウの声に狼狽が混じった。
一人が腕へ取りつく。二人が腰へ。三人目が足首を抱え込む。
振り払われた男が石畳を転がり、それでも笑ったまま這い戻ってくる。
巨腕が薙げば、まとめて宙を舞った。どこかで、乾いた音が鳴る。
それでも、途切れない。倒れた者を越えて、次の男が飛びつく。
(——数えない)
シエンは、奥歯を噛んだ。
今この人たちが払っているものを、無駄にはできない。
巨体の動きが、目に見えて鈍った。
振り払うために腕を使えば、その腕は塞がる。屈めば、ただでさえ遅い方向転換がさらに遅れる。
シエンは、走った。
石畳を蹴り、篝火の影を抜け、巨体の正面へ。
守りを解き、無防備な胴を、わざとその目の前へ晒す。
「離れて!!」
声が飛んだ瞬間、男たちが一斉に手を放した。
枷を失った巨体が、勢い余って前のめりになる。
そして——その眼前に、獲物が無防備で立っている。
(掴みたいでしょう。……生きたまま、連れて行きたいのでしょう)
「小娘ェェ——ッ!!」
巨体が、動いた。
殺すための拳ではない。掴むための、大きく開いた両腕。
逃がすまいと、天へ届くほど高く、深く。
——顎が、上がった。
喉の付け根が、開いた。
シエンは、腕の下へ潜り込んでいた。
巨体は、速い。だが、方向転換だけは——遅い。
短刀が、喉の継ぎ目へ、吸い込まれる。
暗殺者の里で、幼い手に最初に教え込まれた角度のまま。
「……が……」
巨体が、揺れた。
一歩。二歩。
膝から、崩れる。
大地が、鳴った。
「……あのとき……姉では、なく……お前を、連れて……いれば……」
シエンは、血振りをした短刀を収めた。
「連れて行かれていたら」
崩れた巨体を、見下ろす。
「私は今ごろ、姉さんと同じ場所にいた。……それがどこかも、あなたは知らないのでしょう」
巌熊のラゴウは、二度と動かなかった。
——だが。
異変は、その直後に起きた。
倒れた巨体の輪郭が、ゆらりと歪んだ。
熱に炙られた蝋のように、肩の線が溶け、崩れ、盛り上がる。
「……何!?」
シエンは、思わず一歩下がった。
背が裂けるように広がっていく。膨れた肉の下で、骨が組み替わる音がした。太い腕は前肢になり、指の代わりに黒い鉤爪がめり込むように伸びる。
剥き出しの皮膚を、黒褐色の粗い毛が波のように駆け上がった。
顔が、前へ押し出される。人のものだった鼻と口が、長い鼻面へ伸びていく。
歯の並びが変わる。牙が、唇を突き破って外へ現れた。
数呼吸。
それだけの間に、中庭の石畳を埋めたのは——巨大な、熊だった。
倒した相手より、ひと回りもふた回りも大きい。
前肢一本で人ひとりを覆い隠せそうな体躯。だらりと投げ出された後肢の先で、鉤爪が篝火を鈍く弾いている。
(……戻った、の?)
いや。戻ったのだ、と直感が告げた。
これが本来の姿で、あの巨漢のほうが、被り物だった。
一つだけ、変わらないものがある。
喉。
黒褐色の毛に覆われたその一点に、シエンが刺したのと寸分違わぬ場所へ、赤い傷が口を開けていた。
そこから流れ出した血が、石畳を伝い、篝火の縁で黒く固まっていく。
呼吸は、ない。
毛皮に覆われた巨大な胸は、二度と上下しなかった。
(——同じ)
姿が変わっても、傷はそのまま。死んだものは、死んだまま。
それは、この夜ずっとシエン自身の身体が証明してきたことだった。
「……ラゴウ様が……」
「あれが……支部長の……?」
中庭の縁で、男たちのざわめきが広がっていく。
巌熊。
異名だと思っていた。誇張だと思っていた。
(違った。……そのままの、名前だったのね)
十一年。
最初の復讐が、終わった。
シエンは、夜空を見上げた。
笑えると、思っていた。この瞬間が来たら、笑えるはずだと。
——涙も、笑いも、出なかった。
胸の中にあったのは、静かな、拍子抜けするほど静かな——次へ、という言葉だけだった。
(九つの影は、あと八つ。姉さんは、北のどこか。……終わりじゃない。始まったばかり)




