第二話 顔を替える相棒
同じ頃。
内門の格子際で、ユエンは十人ほどに囲まれていた。
「動くな!」
「支部長は生け捕れと仰せだ!」
槍が、四方から喉元へ向く。
——ユエンは、逃げなかった。
代わりに、篝火の届かない柱の陰へ半歩だけ退き、そこで顔を替えた。
一枚。
痩せた白髪の使者が、見たこともない若い男になる。背丈が変わる。肩幅が変わる。足音の重さまで変わる。
「……誰だ、お前は」
「おい、使者はどこへ行った!?」
囲みは、囲むべき相手を見失った。
——人は、覚えた輪郭を追う。輪郭が消えれば、目の前に立っていても見えなくなる。
ユエンは、槍と槍の間をゆっくり歩いて抜けた。
やがて機構室の前で、兵たちは奇妙な悪夢の中にいた。
「今、そこにいたはずだ——」
彼らが追っていたのは、痩せた白髪交じりの使者ソウガン。
だが柱の陰から現れたのは、見たこともない若い男で。
その男を囲んだはずが、次の角では背の曲がった老人が歩いていて。
「な、何なんだ、こいつは……!」
ユエンは、重ねた人物仮面を、最上層から一枚ずつ外しては替えていた。
顔が変わるたび、背丈が、気配が、足音までが変わる。
追う側の目印が、ことごとく無効になる。
(とはいえ——)
ユエンは機構室の扉を見下ろした。
内門を吊り上げる巻き上げ機。その仕組みは分かる。だが、どの縄がどの門に繋がり、どの区画の鍵がどこにあるのか——『この支部の中身』は、知らない。
(シエンの目が要る。あの見取りがなければ、私は強いだけの迷子だ)
窓の外、東の屋根で瓦の音が立った。
兵の流れが、東へ吸われていく。
(——誘導か。上手いものだ)
生まれた短い空白で、ユエンは機構室の戸を開けた。
「誰だ——」
答えの代わりに、低い旋律が流れた。
歌、と呼ぶには短すぎる。
節も、言葉もない。ただ、喉の奥から零れた数小節が、狭い部屋の板壁を撫でただけだ。
——それだけで。
槍を構えかけた兵の瞼が、重く落ちた。
一人が膝を折る。二人目は壁へもたれ、三人目は立ったまま、緩やかに首を垂れる。
戸口へ届く前に旋律は途切れ、あとには、寝息だけが残った。
倒れ込む男たちを支え、ユエンは一人ずつ床へ寝かせていった。
それから、自分の喉へ軽く触れる。
(近ければ、この程度は容易い。……声が届かねば、それまでだがね)
巻き上げ機の歯止めを、蹴り外す。
内門の格子が、軋みながら持ち上がる。
「ユエン!」
屋根から、小柄な伝令の姿が滑り降りてきた。
「その顔は初めて見るな。よく似合う」
「感想はいい。捕虜区画の扉、セイカじゃ開かない。太い閂と錠——」
「だろうと思った」
ユエンは布包みから、最後の一枚を取り出した。
大柄な女の顔。短い黒髪。太い首。
——ガンカ。
「防御と突破。……ただし」
「集中攻撃を受ければ、割れる。分かってる」
「もう一つ。この面は重い。君の脇腹と肩に、その重さがそのまま乗る」
「……承知の上よ」
シエンはセイカの面を外し、ユエンへ預けた。
そして、ガンカの顔を重ねる。
——世界が、低くなった。
いや、自分が高くなったのだ。見下ろす景色。分厚い肩。腕は丸太のようで、掌は閂ごと扉を掴めそうなほど広い。
(なんて、大きい……)
一歩踏み出すと、脇腹の傷が、増えた体重の分だけ重く痛んだ。
「行ける」
「では——役割どおりに」
ユエンは、鳥舎の方角へ身を翻した。
「報告は、一羽も出さない」
「捕虜は、一人も残さない」
二人は、逆方向へ走った。
捕虜区画の扉の前で、シエンは足を止めなかった。
太い閂へ、肩から。
一撃目で、閂が軋んだ。
二撃目で、扉ごと蝶番が浮いた。
「侵入者だ! 西だ、西!」
「待て、あんなでかい女、支部にいたか!?」
「顔を剥ぐ化け物だ! さっきの小娘と同じやつだぞ!」
矢が飛んでくる。
シエンは背を丸め、広い背中で受けた。外套越しの衝撃。——だが、通らない。ガンカの身体は、受け方を知っていた。
三撃目。
扉が、内側へ倒れた。
暗がりの中、二十を超える目が、一斉にこちらを見る。
大柄な女が、倒した扉の上に立っている——その姿に、悲鳴が上がりかけた。
「——静かに」
シエンは、できる限り声を抑えた。
「助けに来た。北の……いいえ、正門側へ。倒れた扉を渡って、壁沿いに」
「あ、あんたは……」
「話は後。子供から先に」
縛られた手首の縄を、次々に引き千切る。ガンカの握力は、刃物より早かった。
捕虜たちが動き出す。
「化け物が捕虜を出したぞ! 逃がすな!」
兵の一隊が、槍を並べて突っ込んでくる。
——誰も、彼女が何者かは問わない。
顔の変わる侵入者。その報せは、すでに支部じゅうへ回っていた。
シエンは、逃げなかった。
倒れた扉を片手で持ち上げ——盾にした。
槍の穂先が、次々に板へ突き立つ。衝撃が、脇腹の傷を軋ませる。
(倒さなくていい。……通すだけでいい)
自分は、道を塞ぐ壁。攻撃を集める的。
その後ろを、捕虜の列が駆け抜けていく。
「壁の陰へ! 止まらないで!」
最後の少年が通り抜けたのを確かめ、シエンは扉ごと兵たちを押し返した。
三人がまとめて転がる。
捕虜の列の先頭で、若い女が振り返った。——枯柳倉の地下にいた顔ではない。だが、同じ目をしていた。
「馬を扱える人は!」
シエンが叫ぶ。
「わ、私が! 実家が馬借で——」
「厩の伝令馬を。南東へ馬で半日、石門関の県衙出先へ。『九影大盗賊団の支部で戦闘。捕虜多数。救援を』——言える?」
「く、九影大盗賊団の支部で戦闘、捕虜多数、救援を!」
「行って!」
女が厩へ走る。
——そのとき。
支部の中央から、地鳴りのような足音が響いた。
兵たちが、示し合わせたように左右へ退いていく。
篝火の輪の中へ、大鉞を担いだ巨体が歩み出た。
「……もういい。下がれ」
ラゴウは、部下たちへ短く言った。
「化け物の相手は、俺がやる」
(——来た)
シエンは、扉の盾を構え直した。
ガンカの広い肩の内側で、心臓だけが、十一年分の速さで鳴っていた。




