第一話 分断された二人
「生け捕れ」
ラゴウの命令が、支部の空気を縛っていた。
篝火を弾いた槍の穂先が、輪になって狭まってくる。
正面に六。左右へ回り込もうとしているのが四。さらに外側で、弓を持った兵が三人、篝火の陰に膝をついた。
——十三。
支部の兵は五十強。残りは門と、倉と、逃げた馬の始末に散っている。それでも、この場の数だけで充分すぎた。
内門の向こうでは、格子際まで押し戻されたユエンが、鳥舎へ続く通路を背にして動かない。
(脱出。捕虜。合流。証拠。報告阻止。——五つ、全部は無理)
シエンは包囲の輪を見回しながら、頭の中で天秤を並べた。
どれかを選べば、どれかが落ちる。
——なら、選ぶんじゃない。
(分ける)
シエンは、腰の後ろで指を三本立てた。
格子まで、十歩とない。落ちた内門の鉄格子越しに、篝火が二人の手元だけを照らしている。
——事前に決めた、最小限の合図。
『三』——捕虜は、私。
一拍おいて、格子の向こうから、指が二本返った。
『二』——門と、報告経路は、私。
それだけだった。
言葉はない。相談もない。
(……充分よ)
四つの報告経路は、まだ生きている。鳩。正門。狼煙。裏口。
捕虜は閉じ込められたまま。門は落ち、二人は離れたまま。
条件は、最悪。
「おとなしく両手を——」
兵が言い終わる前に、シエンは動いた。
正面ではない。左右へ回り込みかけた、その継ぎ目へ。
——包囲は、完成する前がいちばん脆い。
肩から一人を弾き飛ばし、篝火の輪の外へ抜ける。光を出た瞬間、背中へ夜が貼りついた。
反撃は、別々の場所から始まった。
倉と倉の隙間を走る。
警鐘を聞きつけた一隊が、西の詰所から駆けてくるのが見えた。
——まだ、何も見ていない兵たち。侵入者の顔も、逃げた方向も。
「そっちじゃない! 侵入者は東の壁だ!」
シエンは、メイファの声で叫んだ。
暗がりの中、駆けつけてきた一隊が、つられて向きを変える。
「誰の命令だ!」
「受領係よ! 早く!」
嘘に、さっき覚えたばかりの役職名を混ぜる。
混乱した組織の中では、『顔見知りの顔』と『それらしい命令』が、まだ数呼吸だけ通用する。
(この顔が使えるのは、あと少し——)
「待て! そいつだ! その女が偽物だ!」
背後から、正体を知る兵の声が飛んだ。
権威が、音を立てて剥がれ落ちていく。
同じ顔。同じ声。なのに、もう誰も従わない。
(顔の価値は、顔が決めるんじゃない。……周りが決めるのね)
走る。捕虜区画の方向へ。
脇腹の傷が、縫い目ごと熱くなった。肩の矢傷が、腕を上げるたびに軋む。
(替えても、治らない。分かってる)
矢が、頬の横を掠めた。
シエンは倉の陰へ飛び込む。積まれた空箱と、消えかけた篝火。——光の死角。
(ここで、替える)
外せば、下の顔が一瞬だけ晒される。平凡な女——その下の、美姫が。
躊躇は、半呼吸だけ。
シエンはメイファの仮面へ指をかけ、引き剥がした。
借りた顔を、外套の内へ収める。
(回収する。……借りた顔は、捨てない。あなたの身分は、もう守れなかったけど)
すぐさま、布包みから新しい面を出す。
短い黒髪。日に焼けた頬の、細かな古傷。
——セイカ。
雪山で死んだ、山の伝令。
顔へ重ねた瞬間、身体が軽くなった。
背が少し縮む。手足の重心が、指先まで研ぎ澄まされる。足の裏が、地面の凹凸を布越しに読み始める。
(……これが、山を走った人の身体)
ただし、傷の疼きだけは、寸分違わず同じ場所にあった。
「いたか!?」
「倉の裏だ! 囲め!」
兵たちが、地面を取り囲む。
——地面を。
シエンは、跳んだ。
積み箱から庇へ。庇から倉の屋根へ。
セイカの身体は、シエンの知らない足場を次々に見つけた。
瓦の重なり目。梁の出っ張り。壁の割れ目。人の身体ひとつを支える点が、夜の中に星のように浮かんで見える。
「上だ! 屋根の上!」
「弓! 弓を持ってこい!」
眼下で、包囲が崩れて渦を巻く。
平面の包囲は、高さの前では意味を持たない。
(すごい……)
一瞬、傷も忘れて、そう思った。
風が頬の古傷を撫でていく。誰かの人生が刻んだ傷の上を。
(……ありがとう。少しだけ、借りるわね)
矢が飛来する。
シエンは棟を転がってかわし、隣の屋根へ跳び移った。着地の衝撃が脇腹へ響き、息が詰まる。
(速く動けても、丈夫になるわけじゃない)
眼下では、兵たちが網を張り始めていた。長梯子。屋根への上り口の封鎖。射手の配置。
(このまま逃げ回っても、じり貧。……なら)
シエンは、わざと屋根瓦を蹴り落とした。
音を立てて、東へ。目立つように、東へ。
「東へ向かったぞ! 回り込め!」
「梯子を東壁へ!」
兵の流れが、東へ傾いていく。
——捕虜区画は、西の隅。
(追いかけっこの勝ち方は、逃げ切ることだけじゃない。……連れて行くことも、できる)
追手を東へ引きずるだけ引きずり、シエンは屋根の陰で急停止した。
息を殺し、逆走する。
梁から梁へ。音もなく、西へ。
捕虜区画の屋根に降り立ったとき、周囲の見張りは半分に減っていた。
だが——。
区画の扉は、太い閂と鉄の錠で封じられていた。内側からは、決して開かない造り。
(セイカの腕力じゃ、壊せない……)
速さでは、開かない扉があった。
高い小窓の奥から、怯えた目がこちらを見上げている。
「……もう少しだけ、待ってて」
シエンは、内門の方角を見た。




