第六話 退路のない支部
日没の鐘が鳴る、少し前だった。
正門の外から、蹄の音が駆け込んできた。
「開門! 巡回組から急報!」
(——巡回)
シエンの手から、危うく荷縄が落ちかけた。
(早い。巡回が事故現場を通るのは、搬入確認より後のはず——)
門が開き、泡を噴きそうな馬から兵が転げ降りる。
「北の山道の谷底に、死体が二つ——覆いをかぶせて、隠すみてえに置いてありやがった!」
「落ち着け。誰の死体だ」
「そばに副札が落ちてた。積荷の控えと、名前入りの木札だ。……輸送監督メイファと、使者ソウガン……!」
一瞬。
支部全体の音が、消えた。
「……何を言ってる。二人なら今日、ここへ着いたぞ」
「なんだと!? 死体は昨日のものだ。荷車も馬も、影すらねえ。しかも——」
伝令の声が、震えた。
「二人とも、顔がなかった。傷じゃねえ。剥がされたみたいに、顔だけが、綺麗に——」
兵たちの視線が、一斉に、倉の方を向いた。
——シエンを。
(……終わりね。潜入は)
不思議なほど、頭は冷えていた。
受領係が、帳面を抱えて走り出てくる。
「や、やはりだ! 当直も、過去の荷の答えも、どこか噛み合わんと思っていた! あの二人、偽物だ!」
「内門を落とせ! 門を閉じろ! 誰も出すな!」
鐘が乱打される。
定時の鐘ではない。——警報の鐘。
シエンは走った。
合流予定の水場へ。ユエンと決めた、離脱の道へ。
その眼前で。
指揮所と倉庫群を仕切る内門が、轟音を立てて落ちた。
格子の向こう側に、ソウガンの顔が見えた。
「ユエン——!」
「来るな!」
格子越しに、ユエンが鋭く言う。
「そちらは捕虜区画側だ。 私はこちらで鳥舎を——」
「二人で決めた合流路は!」
「もう、ない!」
内門の向こうで、兵たちがユエンを取り囲んでいくのが見えた。
こちら側でも、足音が四方から集まってくる。
(分断——)
「いたぞ! 輸送の女だ!」
「囲め! 顔を剥がした化け物だ、油断するな!」
槍の穂先が、篝火を弾いて光る。
シエンは後退しながら、頭の中の見取り図を広げた。
(ここから外へ出る道は……裏搬出口。遠い。正門。閉じた。壁は——)
そして、すぐ横には。
——捕虜区画の、低い建物。
高い小窓の奥から、いくつもの目が、こちらを見ていた。
包囲の輪が、狭まってくる。
シエンの目は、それでも冷静に『穴』を探していた。
(……ある)
捕虜区画の裏、壁沿いの排水溝。細いが、一人なら抜けられる。兵の配置も薄い。
(あそこなら、抜けられる。外へ出て、体勢を立て直して——)
小窓の奥で、子供が咳をした。
……足が、止まった。
(私が消えれば、この人たちはどうなる?)
侵入者に協力した疑い。見せしめ。口封じ。
盗賊の砦で見た光景が、頭をよぎる。鍵のかかった小屋。押し殺した咳。
あのとき、自分は北の柵へ向かう足を——止めた。
「……本当に」
シエンは、排水溝に背を向けた。
「割に、合わない」
包囲の中心へ、自分から歩き出す。
「動くな!」
「無理ね」
メイファの顔のまま、短刀を抜く。
外套の下で、傷が熱を持ち始めていた。長い潜入が、確実に身体を削っている。
(この身体で、支部まるごとは無理。でも——今夜、全員と戦う必要はない)
必要なのは、時間。
夜明けまでに、四つの道を塞ぎ、捕虜を逃がし、記録を守り——。
(そして、ラゴウ)
内門の向こうでは、ユエンが兵に囲まれたまま、なぜか一歩も、鳥舎から離れようとしていなかった。
逃げられるはずだ。あの膂力なら、壁でも門でも。
(……逃げないんだ、あの男も)
自分だけの脱出ではなく、報告経路の側を選んだ。
鳩を飛ばさせないために。
——そのとき。
包囲の兵たちが、左右へ割れた。
重い足音が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
大鉞を背負ったままの巨体が、篝火の中に立った。
「——殺すな」
ラゴウの声は、静かだった。
静かなまま、支部の隅々まで届いた。
「生け捕れ。顔を剥ぐ化け物が、何をしに来たのか。誰の差し金か。……全部、吐かせてからだ」
「は、はい!」
「それと」
ラゴウは、記録係を振り返った。
「定時の報告を準備しろ。『侵入者二名を捕縛』と。——鳩は、俺が確かめてから飛ばす」
(……報告)
鳩が一羽飛べば、この夜のことは中継所へ渡る。
顔を替える侵入者がいると。その女が、支部の門を通ったと。
——そこから先は、九影の手の中だ。
(飛ばさせない。絶対に)
ラゴウが、一歩、近づいた。
見上げるほどの高さから、値踏みする目が、メイファの顔を見下ろす。
「……女。お前、どこかで——」
言いかけて、やめた。
「まあいい。顔の下は、ゆっくり見せてもらう」
(——見せてあげるわよ)
シエンは短刀を構え直した。
(あなたが焼いた村の、生き残りの顔を。あなたが川へ落とした、妹の顔を)
——ただし、それは今じゃない。
包囲の槍が、一斉に向けられる。
内門の向こうで、ユエンが鳥舎の扉の前に立つ。
夜空には月。
四つの道と、捕らわれた人々と、あの夜の答えを閉じ込めたまま——。
支部の門は、完全に封鎖された。
もう、逃げる道はない。
(なら——勝つ道だけ、探す)
シエンは、嗤わなかった。
嗤う代わりに、静かに、腰を落とした。




