第五話 十一年前の残滓
記録用の紙の箱を抱えて、シエンは記録棟の入口に立った。
「搬入。今日の荷の分」
門番の兵が、箱と通行札を見比べる。
「……入れ。奥の棚だ。触っていいのは紙の棚だけだぞ」
石造りの棟内は、乾いた墨の匂いがした。
棚には帳面が年ごとに並び、奥には鍵つきの木匣が積まれている。
シエンは紙の箱を棚へ収めながら、目だけで年札を追った。
(八年前。九年前。十年前……)
——十一年前。
札は、ある。
だが、その棚の帳面は薄かった。他の年の半分もない。
(抜かれてる。石門関と、同じ)
それでも、残っている物はあった。
シエンは記録係が席を外した短い隙に、頁を繰る。
『谷南東より回収の件、完了。人員二十七。うち——』
——うち。
その先の頁が、切り取られていた。
代わりに、別の一枚が挟まっている。
『選別済み。候補は北へ移送。以後の記録は本部預かりとする』
(候補……?)
『器の候補』
その三文字が、切れ端の隅に残っていた。
(器って、何。……人を『器』って、呼ぶの?)
意味は分からない。
分からないのに、指先が冷たくなった。
二十七人の中から、誰かが『選別』され、北へ送られ、記録ごと本部へ持ち去られた。
(——姉さんの名前は、ここには、ない)
欠けているのか。移されたのか。最初から書かれなかったのか。
確定できるのは、一つだけ。
『この先』が、あるということ。
シエンは帳面を戻し、切れ端の文言だけを胸に刻んだ。
棟を出ようとしたとき——。
外が、静かになった。
兵たちの話し声が、波が引くように消えていく。
重い足音が、近づいてくる。
一歩ごとに、地面から胸へ、震えが伝ってくるような足音。
シエンは紙箱を抱え直し、壁際へ寄って頭を下げた。
——視界の端を、影が塞いだ。
大きい。
戸口をくぐるのに、頭を深く下げている。肩は戸幅いっぱい。腕は、シエンの胴より太い。背には、柄の長い大鉞。
巌熊の、ラゴウ。
「——報告書は」
低い声だった。岩の底から響くような。
「こ、ここに。本日の受領分と、定時の分を」
記録係が、震える手で束を差し出す。
ラゴウは受け取りざま、記録係の手元が遅れたことに、目を細めた。
それだけで、記録係の膝が落ちた。
「も、申し訳ありません……!」
「拾え」
たった二文字で、床の空気が凍る。
(……これが、ラゴウ)
シエンは、頭を下げたまま、目だけで観察した。
むき出しの前腕に、古い矢傷の痕がある。——刺さった痕ではない。弾かれた痕だ。浅く、白く、皮の上を滑った痕。
いや、それだけではない。刀傷。焼け痕。獣の爪に裂かれたような、幾筋もの古い線。
(……多すぎる)
人ひとりが生涯で負う数ではなかった。しかもどれもが、ずいぶん古い。
(刃も通らない化け物。……噂じゃ、ない)
そのとき、部下の一人が、革と鉄でできた装具を捧げ持って現れた。
「ラゴウ様。膝当てと肘当ての革を替えました。継ぎ目の油も——」
「置いていけ」
(……継ぎ目?)
シエンの目が、装具へ走る。
肘。膝。首の付け根。——動く場所を守るための、当て革。
(全身が岩なら、守る必要なんてない。守るということは……硬いのは『面』で、曲がる場所には、継ぎ目がある)
観察が、勝手に組み上がっていく。
(可動部。継ぎ目。——そこが、通るかもしれない)
ラゴウが、ふと顔を上げた。
「……輸送の女」
(——!)
「は、はい」
「事故で遅れたと聞いた」
「申し訳ありません」
「詫びはいい。荷が着けば、それでいい」
ラゴウの目が、一瞬だけシエンの上で止まった。
値踏みするような、それでいて何かを探すような、長い一瞬。
(——気づかれた? いいえ。まだ。まだのはず)
「……下がれ」
足音が、遠ざかっていく。
シエンは、自分の左手を見た。
いつの間にか、短刀の柄を、外套の上から握りしめていた。
(今なら、届いた。……ううん。届かなかった。あの背中に、この刃は立たない)
殺せる距離。殺せない相手。
情報も、退路も、まだ揃っていない。
(順番どおり。……焦らない)
指を、一本ずつ開いた。




