第一話 二つの死者の顔
——時は、一夜だけ遡る。
支部の門をくぐる、前の晩。山道脇の窪地で、二人は最後の準備をしていた。
焚き火はない。月明かりの下、シエンはメイファの顔で、ユエンはソウガンの顔で向かい合っている。
「では、始めよう」
ソウガンの細長い顔が、静かに言った。
「メイファ。今回の荷の数は」
「荷箱が十二、油甕が四、薬箱が二、矢束が六。記録用の紙が一箱」
「経由は」
「西津渡しから北西古道。石門関の先で一泊——のはずだった。実際は落石で一日遅れた」
「封印の欠けた荷箱について訊かれたら」
「事故で谷へ落ちた。積み直したときに封が割れた。……これでいい?」
「悪くない。だが、まだ足りない」
ユエンは、地面へ小枝で線を引いた。
「問題は、質問が『二人へ別々に』来ることだ」
(……そう。それが、一番怖い)
シエンは頷く。
門を抜けたあと、輸送監督と使者が同じ場所に居続けるのは不自然だ。必ず、別々の持ち場へ分けられる。
「私が倉で訊かれたことと、あなたが詰所で訊かれたこと。答えが食い違えば、それだけで疑われる」
「そうだ。個人の記憶の穴なら、ごまかせる。だが『二人分の身分の矛盾』は、組織が勝手に見つけてくれる」
「……全部を覚え合うのは、無理ね」
覚える時間も、覚える材料もない。分かっているのは、遺品と身分証と荷から読み取れる役割だけ。
メイファが誰と親しかったのか。ソウガンが誰を嫌っていたのか。三年前に何があったのか。
——死者の顔は、何も答えない。
「なら、覚えない」
シエンは言った。
「答えを増やすんじゃなくて、減らす。何を訊かれても、行き着く先を一つにする」
「……ほう」
「『落石事故で、荷と記録が乱れた』。荷数が合わなくても、封印が欠けても、到着が遅れても、記録と食い違っても——全部、そこへ集める」
ソウガンの薄い口髭の奥で、ユエンがかすかに笑った気配がした。
「一つの嘘に、すべての矛盾を背負わせるか」
「嘘じゃないもの。事故は本当にあった」
「だから強い。……いいだろう。次は分担だ」
ユエンが小枝の先で、自分と、シエンを順に指す。
「知識が要る場面は私だ。古い形式、取引の作法、記録の書式。——観察と即応が要る場面は君だ。人の重心、視線、配置、逃げ道」
「異論はない」
「離れている間の合図も決める」
二人は、荷の並べ方を使うことにした。
倉へ運び込む荷箱の向き。縄の掛け方。積む順番。
『封印について訊かれた』なら、欠けた封の箱を一番外へ。『当直を訊かれた』なら、縄を二重掛けに。『危険、離脱準備』なら、油甕を荷の外へ出す。
短い作業の音も決めた。荷箱を二度打てば『問題ない』。長く一度なら『照合が始まっている』。
「完璧ではないな」
「完璧な潜入なんて、ない」
「……君は、たまに私と同じことを言う」
「気のせいよ」
最後に、ユエンは布包みを開いた。
セイカ。——山を走るための、若い伝令の顔。
ガンカ。——門を支えた、大柄な守備兵の顔。
「非常用はこの二枚だけだ。使えばどちらも一枚きり。割れれば、二度と戻らない」
「セイカは逃走。ガンカは突破。……覚えている」
「それから」
ユエンの声が、わずかに低くなった。
「支部の中では、月視は当てにするな。屋根の下と閉鎖区画は見えない。私に見えるのは、月光の届く場所だけだ」
「最初から当てにしていない」
「頼もしいことだ」
シエンは、メイファの右眉の傷へ触れた。
自分のものではない眉。自分のものではない傷。
(……この人は、どんな声で笑ったんだろう)
考えて、やめた。
知らないままでいい。知らないまま——借りた身分ごと、返しに行く。
「寝る。夜明けに起こして」
「約束する」
準備を増やせば、搬入の時刻を逃す。急げば、記憶の穴が残る。
どちらも選べないから、二人は『穴を埋めない』ことを選んだ。
穴は、ある。
——その穴ごと、渡り切る。




