第六話 今ここにいる敵
動ける馬を縄から外し、散った荷を集めた。
ユエンが、荷車を谷から引き上げる。
「……本当に、何なの、あなた」
「面屋だよ」
「面屋は荷車を引き上げない」
「力持ちの面屋もいる」
「自分で言わないで」
外れた車輪は、予備の軸木と縄で固定した。
速くは走れない。——だが、支部までなら持つ。
日が沈む前に、二人は山道脇の窪地へ荷車を隠した。
明日の昼までは、まだ間がある。
「今夜、入る」
シエンが言うと、ユエンは荷車の覆いを直す手を止めた。
「予定と違う」
「ラゴウが移動するかもしれない」
「使者が真夜中に着けば、それだけで妙に思われる。門番なら、まず私を疑うだろうね」
「待っている間に、谷の二人を見つけられるかもしれない」
ユエンは搬入予定の紙を広げ、指で日付をなぞった。
「通常の巡回が、あの谷を通るのは——二人の搬入が終わったあとだ。覆いをかけた遺体は、崖の上からは見えない」
「予定どおりなら、でしょう。早く見つかれば、騎馬の報告はその日のうちに届く」
「だから、予定の刻に入る」
指が、明日の昼の欄で止まった。
「巡回が谷へ降りるより先に、私たちが門をくぐる。猶予があるとすれば、そこだけだ。……夜中に飛び込めば、疑われた分だけ、中にいられる時間が削られる」
——予定どおり入るのが、いちばん長く中にいられる。
シエンは反論しようとした。
だが。ラゴウを殺す前にやることを、自分で決めたばかりだ。
「支部の戦力を調べる」
シエンは、指を一本立てた。
「ああ」
「シヨウの記録を探す」
「上位への連絡方法もだ」
「そして——全部終わるまで、ラゴウを殺さない」
三本目の指が、わずかに震えていた。
ユエンは、それを見ていた。
「……できるか」
「——やる」
ユエンは、二枚の仮面を地面へ置いた。
メイファ。ソウガン。
「顔は一致する。声、口調、体格、気配も変わる」
「記憶はない」
「バンロのときより危険だ。二人とも、支部内に顔見知りがいる」
「最低限の役割は目録にある」
ユエンは仮面を挟んだまま、問う側へ回った。
「では——過去の取引を訊かれれば?」
「急いで報告があることにする」
「メイファの家族を訊かれれば」
「聞き返す」
「知っているはずの相手の名を、呼ばれれば」
「返事をしない」
「……全部は避けられんぞ」
「——だから、長くはいない」
シエンは、支部の粗い見取り図を描いた。
門。倉庫。記録を置く建物。捕虜がいる可能性のある区画。ラゴウの居場所。
……分からない場所ばかりだ。
「失敗した場合は?」
ユエンが、さらに二枚の仮面を出した。
一枚は、短い黒髪の若い女。小柄で、日に焼けた頬に細かな古傷がある。
「セイカ。山岳の伝令だった。登ること、細い足場を走ること、長く移動することに優れている」
「死因は?」
「雪山で凍死した」
「あなたが見つけた?」
「……」
もう一枚は、大柄な女の顔。短い黒髪。太い首。日に焼けた肌。
仮面だけでも、身体の大きさが伝わってくるようだった。
「ガンカ。関所の守備兵。盾と長柄武器、狭い場所で踏ん張ること、重い物を動かすことに向く」
「この人は?」
「洪水で門が崩れたとき、住人を逃がすために支え続けた」
「……立派な人ね」
「ああ」
「便利な顔だけ集めたように聞こえる」
「便利だから残している」
「最低」
「否定はしない」
ユエンは二枚を布へ包み、シエンの手へ載せた。
思ったより、軽い。
「どちらも一枚しかない。割れれば戻らない」
「セイカは逃走。ガンカは突破」
「ただし、セイカに正面戦闘は向かない。ガンカは重く、細い足場や登攀には向かない」
「——万能では、ない」
「仮面は、いつもそうだ」
シエンは、自分の顔へ触れた。
最上層は、平凡な女。その下には、美姫。
さらにメイファを重ねれば——三人目の、死者になる。
「寝る」
シエンが言うと、ユエンが目を見開いた。
「何?」
「いや。成長したと思って」
「明日、失敗しないためよ」
「分かっている」
「夜明けに起こして」
「約束する」
◇◇
潜入の朝。
シエンは、メイファの仮面を重ねた。
視界が一瞬だけ暗くなる。
背が少し縮み、肩と腰の幅が変わる。日に焼けた手。引き締まった腕。右眉の傷。
——傷の疼きだけは、持ち主のまま変わらない。
「メイファ」
ユエンが呼ぶ。
「何?」
声は、自分より少し低い女のものだった。
「呼ばれたら、その速さで反応する」
「分かっている」
「怒り方は君のままだな」
「あなたは?」
ユエンは、ソウガンの顔を重ねた。
細長い顔。薄い口髭。白髪交じりの髪。身体が伸び、背がわずかに丸まる。
「どう見える?」
「……信用できない使者」
「適役だ」
二人は荷車を古道へ戻した。
昼前——山あいに、石壁が見えた。
高い塀。見張り台。鉄で補強された門。
九つの影の旗が、風に揺れている。
(あの夜から……形しか知らなかった敵が、いま、目の前にある)
「止まれ!」
門上から、声が飛ぶ。
「名を言え!」
シエンは、通行札を掲げた。
「輸送監督、メイファ。予定の荷を届けに来た」
隣で、ユエンが身分札を見せる。
「直属使者、ソウガン。支部長へ報告がある」
見張りが、札を確かめる。
「荷は刻限どおりか。……だが、昨日の合流地点には来なかっただろう。伝令が待ちぼうけを食ったと騒いでいたぞ」
「落石に巻き込まれた」
ユエンは短く答えた。
——嘘では、ない。
(合流を飛ばした穴は、もう向こうが埋めてくれた)
シエンは頭の中で、用意した言い訳をひとつ消した。
「荷は?」
「見れば分かる」
シエンが、苛立った声を出す。
メイファの口調がそうさせたのか、自分の性格なのかは分からなかった。
門兵が笑う。
「相変わらずだな、メイファ」
(——最初の、知人)
名前は、知らない。
シエンは目を合わせず、壊れた車輪を指した。
「ここで話すなら、先に荷を下ろして」
「分かったよ。入れ」
門の鎖が巻き上がる。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
中から、武器を持つ男たちと、荷を運ぶ人影が見えた。
さらに、奥。
——岩を打つような、重い足音が、響いてくる。
「ソウガン」
門兵が、声を落とした。
「ラゴウ様が、お待ちだ」
シエンは、平凡な顔のさらに下で、嗤いそうになった。
(待っていたのは——こっちも、同じよ)
姉を奪い、故郷を焼いたかもしれない男。
追い続けた最初の敵が、いま、扉の向こうにいる。




