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第五話 死者の身分

 その日は、石門関から動かなかった。

 ユエンはシエンの脇腹の縫い目を検め、肩の傷へ薬を塗り直した。

 糸を掛け替えるのは、これで三度目になる。傷の縁は白く盛り上がり、その周りだけが薄く赤い。塞がりかけては裂け、塞がりかけては裂け——皮膚が、追いつかなくなっていた。

 捕らえた襲撃者と伝令は、西津県衙の出先へ引き渡した。ヨウシンの証言と写しも、公の記録として預けた。

 ——これで、九影が二人を殺しても、証拠は消えない。

 頭の吐き気は、もうほとんどなかった。夜も続けて眠れるようになった。

 だが脇腹と肩だけは、休むたびに塞がりかけ、戦うたびに裂けてきた。


「次に開いたら、もう縫えない」


 ユエンは糸を切りながら、淡々と言った。


「縫える皮が残っていない。焼いて塞ぐか、開いたまま歩くかだ」

「……脅している?」

「説明している」

「誰かと、同じ言い方ね」

「はて。誰だろうな」


 白々しい返事だった。

 シエンは布を巻き直しながら、胸の内で数える。

(あと一度。……あと一度だけなら、保つ)

 翌朝。

 二人は口封じ役から押収した二頭の馬を県衙出先から借り、伝令が持っていた地図を頼りに、北西の古道へ入った。

 支部へ向かうためではない。——まず、伝令が合流するはずだった地点を調べる。

 古道は、昼前から急な山道へ変わった。

 右は岩壁。左は深い谷。荷車一台が、やっと通れる幅しかない。


「止まって」


 シエンは、道の端へしゃがんだ。

 新しい車輪跡がある。二頭立ての荷車。山側へ寄りすぎ、片輪が岩へぶつかっている。

 ——その先で、跡が、突然消えていた。

 谷から、馬の嘶《いなな》きが聞こえる。

 二人は崖下を覗いた。

 荷車が、横倒しになっている。

 車輪は外れ、積荷が斜面へ散らばっていた。馬が一頭、脚を縄へ絡ませてもがいている。もう一頭は……動かない。


「事故……よね」


 シエンが言うと、ユエンは崖の縁から谷底を見下ろしたまま、すぐには答えなかった。


「そう見える、というだけだ」

「都合が良すぎる、と言いたいの」

「まだ何も言っていない。——見てから決める」


 シエンは崖を下りた。

 傷を庇い、足場を一つずつ選ぶ。ユエンは、ほとんど斜面を『歩く』ように降りていく。


「それ、どうやっているの」

「足を置いている」

「見れば分かる」


 荷車の近くに、二人、倒れていた。

 一人は、女。

 二十代後半。日に焼けた肌。引き締まった身体。黒髪を後ろで一本に結び、右眉に小さな傷がある。

 もう一人は、男。

 四十ほど。痩せた細長い顔に薄い口髭。白髪交じりの黒髪。倒れていてもなお、背を少し丸めた姿勢が残っている。

 女は、首を折っていた。男は、胸を荷箱に押し潰されている。

 ——どちらも、もう息はない。

 顔には、傷がなかった。

 シエンは周囲を調べる。


 争った跡はない。第三者の足跡もない。

 道の上には、新しく剥がれた岩肌。落ちた石が車輪へ当たり、荷車を谷へ押し出したのだ。岩には、昨夜の雨が染み込んでいる。


「落石ね」


 シエンは指先の土を払って立ち上がった。


「上から落ちた石が、車輪をさらった。それだけ」

「誰かが落とした形跡は」

「ない。梃子《てこ》を噛ませた跡も、足場を作った跡もないわ」


 ユエンは短くうなずき、それ以上は疑わなかった。

 支部の粛清では、ない。

 二人が仮面を得るために殺したのでも、ない。

 ——ただの、事故だった。

 だからこそ、気味が悪いほど都合がよかった。


「知っていた?」


 シエンがユエンを見る。


「何を?」

「この二人が死ぬこと」

「知らない」

「月で見ていたのでは?」

「月視は未来を見ない。それに、目の届く輪の外は、私にとっても闇だ」

「なら、どうしてこの道を選んだの」

「伝令の地図に、合流地点の印があった」


 ユエンが地図を見せる。

 確かに、少し先の合流地点が丸で囲まれている。


「偶然だよ」

「あなたが言うと信用できない」

「困ったものだ」


 女の腰から、木と銅を組み合わせた通行札が見つかった。

 ——メイファ。ラゴウ支部へ物資を運ぶ、輸送監督。

 男の懐には、黒い封蝋のついた身分札。

 ——ソウガン。ラゴウ支部直属の、使者。


「『ラゴウ支部』……」


 初めて、文字として支部の名が出た。

 積荷は、穀物、油、薬、矢、記録用の紙。荷箱にはすべて、獣の爪を重ねた九つの影が押されている。

 荷車の座席下から、搬入目録と予定表が出てきた。

 到着は、明日の昼。東の物資門から入る。メイファが荷の確認を行い、ソウガンが支部長へ輸送状況を報告する。


「——入口が、揃った」


 ユエンが言う。


「顔も」


 シエンは、死者を見た。

 枯柳倉へ潜入したとき、ユエンがバンロの顔を奪うところを見た。何が起きるかは、知っている。

 死体には——顔のない空白が、残る。


「作る?」


 問いの形だった。

 命じるのでも、勧めるのでもなく——ユエンは、決めつけなかった。


「……私に、選ばせるのね」

「顔を使うのは君だ」

「あなたも使うでしょう」

「私は必要なら使う。だが、君が嫌なら別の入口を探す」

「明日までに?」

「……難しい」


 正面から襲えば、ラゴウを殺せるかもしれない。

 だが、シヨウの記録を消される。捕らわれている者がいれば、盾にされる。支部から上位へ、報告が飛ぶ。


「——作って」


 言葉は、重かった。

 それでも、迷いはなかった。


「姉の記録を探すために、この人たちの身分を借りる」

「分かった」


 ユエンは、最初にメイファの前へ膝をついた。

 死者の顔へ、手を置く。

 青白い光が、指の間からこぼれた。

 血も、刃の音もない。顔だけが薄く剥がれ、一枚の仮面となる。

 次に、ソウガン。

 二枚の死者の顔が、ユエンの手へ収まった。

 シエンは、二人の遺体を荷車の覆いで包んだ。


「戻ったら、埋める」


 覆いの端を押さえながら、シエンは言った。


「戻れればな」

「——戻るのよ」


 崖の上から、遠くで鳥の声がした。

 支部の巡回者かもしれない。

 二人は顔と通行札、必要な目録だけを持った。荷車は引き上げて使う。谷底へ残していくのは、覆いに包んだ二つの遺体と、その脇へ置いた副札——積荷の控えと、二人の名が記された木札だけだ。

 誰かが谷を覗けば、死者の身分はいずれ分かる。

 ——時間は、長くない。


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