第三話 九つの影
シエンは武器庫脇の水桶を次々と蹴り倒した。
あふれた水が地面を流れ、武器庫と穀物倉庫の間へ広がっていく。
風は潜入前と変わらず、西から。囚われていた人々は、すでに風上の谷へ逃げた。
(これなら、火は広がらないはず)
武器庫の細工を外し、身体ひとつ分だけ扉を開ける。
松明を一本引き抜き——油壺の山へ、投げ入れた。
すぐに扉を閉ざす。
砦の奥で、炎が咆哮を上げた。武器庫の壁を、赤い舌が一気に舐め上げていく。
——その赤が視界に入った瞬間。
シエンの身体が、石のように強張った。
燃える家。
伸ばした姉の手。
煙の向こうへ消えていく、人影——。
「……っ、違う」
呼吸を、ひとつ数える。
(今は、あの時じゃない)
火の周りに人はいない。風は西から。地面は濡らした。穀物倉庫まで炎は届かない。
大丈夫。確認した通り、火は武器庫だけを呑み込む。刃も弓も、熱に歪んで二度と使い物にならなくなるだろう。
(……いつまでも、見ている必要はない)
捕虜は逃がした。馬も武器も潰した。
——そこでふと、シエンは別の可能性に思い当たる。
(これだけの人と物資を動かしていた盗賊団……。略奪品とは別に、取引の記録があるはず。それがあれば以前に売られた人たちを救うことができるかもしれない)
シエンは炎に背を向け、頭領の建物へ戻った。
部屋の中は、見るも無残に荒れ果てていた。頭領の死を聞いた誰かが、金や酒を引っつかんで逃げたのだろう。
寝台。机。酒棚。獣皮。
金目の物は散らばっているのに——書類らしきものが、どこにもない。
(これだけの規模で、帳面が一冊もない? ……ありえない)
シエンは床へ膝をついた。
目を凝らす。埃の積もり方が、一箇所だけ薄い。机は最近動かされている。
床板へ耳を当て、指先で軽く叩いていく。
——一枚だけ、音の響きが違う。
短刀を隙間へ差し込み、そっと板を持ち上げる。
中に隠されていたのは、ずしりと重い銭袋と……油紙に包まれた、薄い帳面だった。
通常の略奪品とは、明らかに別枠で隠されていた代物。
頁をめくる。
人の名前は、ひとつもない。
代わりに並ぶのは、丸、三角、横線、数字——人を指すのか、物資なのか、情報なのかすら分からない、暗号じみた符丁の羅列。
そして、最後の頁。
黒い印が、押されていた。
九つに、分かれた影。
——心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「ジュイン・ダオゼイトゥワ……」
九影大盗賊団。
五歳のシエンは、故郷を焼いたあの旗印を忘れないよう、来る日も来る日も土に描き続けた。育ての親の老夫婦はその印を裏社会の古い伝聞と照らし合わせ、組織の名と読みを教えてくれた。
だが、この十一年間、シエンの手の中にあったのは幼い日の記憶だけ。
あの日——姉のシヨウを連れ去った者たち。
(同じ印だという確証はない。幼い記憶の中の旗も、九つの影に『見えた』だけかもしれない)
この帳面だけでは、誰と、どこで、何を取引したのかも分からない。罠の可能性すらある。
それでも。
「……姉さん」
追い続けた歳月で、初めて手にした、形のある手掛かりだった。
シエンは帳面を、外套の内側へ大切に収めた。
(これを持っていれば……必ず、追われる)
分かっている。暗殺者として正しいのは、こんな危険な荷物を抱え込まないことだ。
それでも、これはようやくつかんだ、姉へ繋がるかもしれない唯一の糸。
安全と引き換えに手放せるくらいなら——最初から、追ってなどいない。
◇ ◇
その頃。
砦から逃げ出した男たちは、山中の洞窟へ転がり込んでいた。
洞窟の奥では、赤い衣の男が焚き火の前に座り、黒い符を一枚、また一枚と火にくべている。
「ふ、副頭領……!」
「騒ぐな。獣が逃げる」
「頭領が——兄貴が殺されました! 髑髏の面をかぶった侵入者です。あっしも武器庫の前でやり合いやした……間違いねえ、あの声は女です!」
符をくべる指が、ぴたりと止まった。
「砦も潰されました。捕らえてた奴らは逃げて、馬も武器も……」
「……兄貴の部屋は?」
「わ、わかりやせん。ちらっと見たときはだいぶ荒らされてやしたが……」
炎の中で、黒い符が音もなく縮んでいく。
「馬鹿野郎どもが! もし帳面を奪われていたら、消されるのは俺たちだ」
「で、でも、もう砦は——」
副頭領が、ゆらりと顔を上げた。
その双眸に宿っているのは、兄を失った怒り——いや、それ以上に深い、底なしの焦りだった。
「残った奴らを集めろ。街へ続く道を分担して塞げ。砦に帳面が残っていないか、床板まで剥がして探させろ」
「へ、へい!」
副頭領は、火の中から一枚の符を素手で拾い上げた。
燃えているはずのその紙は——なぜか、ぞっとするほど冷たい闇をまとっている。
「それから山狩りの連中に伝えろ。獣を殺して持ってこい。黒い符を惜しむな」
男たちが、ぎょっと顔を見合わせる。兄の仇討ちにしては、あまりに大がかりな命令だったからだ。
「居場所さえ分かれば——あとは俺が、追う」




