第二話 割に合わない仕事
(盗賊を皆殺しにする必要は、ない)
囚われた者たちが逃げ切るまでの時間を稼ぎ、この砦を『盗賊団の拠点』として使えなくすればいい。
やることは決まっている。
見張りの目と、警鐘の耳を塞ぐ。武器と馬を使えなくする。そして、奪われた食料は——本来の持ち主へ返す。
命令を出せる頭領は、もういない。山にいるという術使いの弟が戻る前に、すべて終わらせる。
シエンはまず、厩の留め具を外した。
馬の尻へ、短刀の鞘を軽く当てる。
一頭が甲高いいななきを上げて走り出すと、残りの七頭も雪崩を打って続いた。柵を蹴り倒し、土煙を上げて砦の中央へ飛び出していく。
「う、馬が逃げたぞ!」
「柵を蹴破りやがった!」
たちまち砦中に怒鳴り声が飛び交った。
シエンは騒ぎに紛れて見張り台へするすると上り、詰めていた男の口を塞いで、首筋に短刀を走らせる。残るもう一つの見張り台の男は、逃げる馬を追いかけて、とっくに持ち場を離れていた。
——これで、砦の『目』は潰れた。
警鐘の縄を、短刀がすぱりと断つ。
——これで『耳』も潰した。
次に武器庫へ走り、鍵穴に細工を施す。これで容易に扉は開かないはずだ。
扉の隙間から覗いた武器庫内には、油壺がずらりと積まれていた。
(燃やせば武器は一網打尽。……でも、まだ駄目)
すぐ近くには、囚われた人々がいる。火を使うのは、全員を逃がしてからだ。
倉庫の穀物にも、火はかけない。あれは盗賊の持ち物ではない。奪われた村へ返すべき物だ。
「頭領は南門へ行ったぞ!」
シエンは暗がりから、鋭い声を投げ込んだ。
「襲撃だ! 全員、南へ集まれ!」
鈴を転がすような美声は、低く抑えてもよく通る。
酔った盗賊たちは顔を見合わせ、我先にと南門へ走り始めた。
「誰の命令だ!」
「頭領に決まってんだろ!」
「は? 俺は東って聞いたぞ!」
——そう。別の場所では、シエンはまったく違う指示をばら撒いていた。
統制を失った男たちが、南と東へ真っ二つに割れる。馬を追う者。武器庫を開けろと喚く者。互いに叫び、互いの邪魔をし、誰ひとりとして全体を見ていない。
(烏合の衆、ここに極まれり、ね)
シエンは捕虜小屋へ戻った。
鍵を外して扉を開くと、中の人々が一斉に、怯えたように後ずさる。
無理もない。月明かりを背に、白い髑髏が自分たちを見下ろしているのだから。
「——声を、出さないで」
母親が、ぎゅっと子供を抱きしめる。
「北の柵が開いている。外へ出たら谷沿いに西へ。風上だから煙も来ない。夜が明けるまで、道には出ないで」
「あ、あなたは……」
「早く」
短刀が縄を断つ。
男たちは不安げに顔を見合わせたが、ひとりが立ち上がると、堰を切ったように残りも続いた。
そこへ、頭領の建物にいた二人の女が駆け込んでくる。偽の命令に踊らされた男たちが部屋を飛び出した、その隙に逃げ出してきたのだ。
「この人たちと一緒に。西の谷へ」
二人は涙目で何度もうなずき、列へ加わった。
最後に出ようとした母親が、シエンの前で足を止める。
「あの……倉庫に、村から奪われた薬が——」
「場所は?」
「穀物の裏です。子供は、あれがないと……」
シエンは身を翻し、倉庫へ走った。
薬箱を探し当て、母親の腕へ押しつける。
「穀物も燃やさずに残す。夜が明けたら、近くの村へ知らせて」
母親は薬箱を宝物のように抱きしめ、強く、強くうなずいた。
礼の言葉を聞く前に、シエンは扉を閉めた。
——そして。
「兄貴がやられた!」
頭領の死が、とうとう知られた。
「侵入者だ! 捕まえてた奴らも逃げてるぞ!」
「む、村の連中が取り返しに来たのか!?」
恐怖が、男たちの怒声をどこまでも大きくしていく。
シエンは悠然と、武器庫の前へ立った。
追ってきた三人が、閉ざされた扉の前で立ち往生する。
「武器庫の扉が開かねえ!」
「鍵番はどこだ!」
答えの代わりに——白い髑髏が、静かに闇から現れた。
「だ、誰だてめぇ!」
三人が慌てて得物を構える。
ひとりは薪割り斧。ひとりは短い槍。最後のひとりに至っては、調理用の包丁だ。
(武器庫を塞いだ意味……まだ分かっていないみたいね)
シエンは、あろうことか槍を持った男の間合いへ自分から踏み込んだ。
穂先が伸びるより早く柄をつかんで横へ引き、槍の男を斧の男へ勢いよくぶつける。もつれ合う二人。その隙間を縫って包丁が振り下ろされる——が、シエンは手首を軽く打ち、取り落とされた刃を遠くへ蹴り飛ばした。
「逃げるなら、追わない」
髑髏の奥から、静かな声が告げる。
三人の動きが、ぴたりと止まった。
背後では、逃げた馬の蹄の音が遠ざかっていく。捕虜はいない。警鐘は鳴らない。武器は取れない。
——ようやく、彼らは気づいたらしい。自分たちがもう『集団』ではないことに。
斧の男が、真っ先に逃げた。
包丁を失った男も続く。
だが槍の男だけは、恐怖を振り切るように叫び、突っ込んできた。
シエンは半歩で穂先をかわし、すれ違いざま、その首へ短刀を滑らせた。
「……だから、言ったのに」
崩れ落ちる身体を避け、逃げた二人が闇に消えるのを確かめる。




