第一話 闇の外から見る者
吹きすさぶ夜風が、黒い外套の裾をさらっていく。
崖の上に腹ばいになったシエンは、眼下に広がる薄汚れた盗賊砦を冷ややかな瞳で見下ろしていた。
砦の中に蠢く気配は、ざっと二十二。だが、今回シエンが請け負った『命の刈り取り』は、たった一人分だけだ。
依頼主は、この盗賊団に骨の髄までしゃぶり尽くされている近隣の寒村だった。
(かき集めたなけなしの金じゃ、全員の首は買えない……。せめて頭領だけでも殺して、弱体化させる)
それが、彼らの血を吐くような悲痛な願いであり、出せるぎりぎりの依頼だった。
闇夜に完全に溶け込んでいる細身のシルエット。深く被った頭巾の奥では、死神を思わせる白い『髑髏の仮面』だけが、月の光を反射してぼんやりと不気味に浮かび上がっている。
柵に囲まれた砦には、粗末な見張り台が三つ。赤々と燃える松明が十二本。厩には馬が八頭。南側には荷車を通すための大掛かりな正門があり、東の崖際ぎりぎりには、人ひとりがようやく抜けられそうな古びた排水口が口を開けている。
見張りの交代はおよそ半刻ごと。
だというのに、北の見張り台にいる男だけは、さっきから気まぐれに持ち場を離れていた。理由は単純——こっそり隠し持った安酒を、同僚の目を盗んではちびちびと呷っているからだ。
シエンは二刻もの間、身じろぎひとつせず、その一部始終を観察し続けていた。
「またかよ。小便が近いんじゃねえか?」
「うるせえ。冷えるんだよ」
北の男が、欠伸まじりに見張り台を下りていく。
(——今)
シエンが身を起こしかけたとき、砦の北側に建つ倉庫の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは、したたかに酔った盗賊が二人。肩を組み、上機嫌な鼻歌まで歌いながら——よりにもよって、シエンが狙っていた侵入口の真ん前に腰を下ろし、酒盛りの続きを始めてしまった。
「……運が悪いわね」
夜風にまぎれて消えるほどの、小さな呟き。
涼やかな、女の声だった。
もっとも、その程度で侵入を諦めるシエンではない。
(焦らない。夜はまだ長い)
シエンは松明の揺れを見る。風は西から。厩の馬は、ときおり苛立たしげに土を蹴る。見張り台の男は、下で笑い声が上がるたび、つられてそちらへ首を伸ばす。
——人の視線には、必ず『癖』がある。
北の見張りが酒瓶を傾けた。
厩で馬がひときわ高く鳴く。
見張り台の男が顔を向ける。
門前の二人が同時に吹き出し、互いの肩を叩き合う。
四つの視線が、一斉に外れた。
その刹那——シエンは崖を滑り降りた。
砂利音ひとつ鳴らさない。黒い外套が夜に紛れ、柵の影へするりと吸い込まれる。身を低くしたまま、獣のような静けさで走った。
(誰も殺さない)
それがこの潜入の鉄則だった。死体がひとつでも見つかれば、砦全体が蜂の巣をつついたような警戒態勢に入る。だが眠っているだけなら——連中は朝まで、幸せな役立たずでいてくれる。
と、そのときだった。
持ち場に戻ってきた北の男が、柵の裏で響いた小さな音に、ぴくりと足を止めた。
「……誰だ?」
男が、暗がりを覗き込む。
闇の中で。
白い髑髏と、目が合った。
「ひ——」
悲鳴は、最後まで出なかった。シエンの指が電光石火で喉を押さえ、返す肘が鳩尾へ深々と沈む。糸の切れた人形のように崩れ落ちる巨体を、細腕が音もなく受け止めた。
手から離れた酒瓶だけが、地面へ落ちて——割れる寸前。
爪先が、そっと受け止めた。
「……寝ていて」
意識のない男へ囁き、酒瓶ごと静かに地面へ横たえる。
北側の倉庫を抜けると、砦の中央に、ひときわ大きな建物が見えてきた。
頭領の住処だ。窓には獣皮が張られ、正面に護衛が二人、裏口に一人。中からは杯を打ち合わせる下品な笑い声と——それに混じって、女のすすり泣く声が漏れ聞こえていた。
シエンの瞳が、すっと細くなる。
仲介人から伝えられた頭領の特徴は二つ。右耳が半分欠けていること。そして、猪の牙を首から下げていること。
窓の隙間から、そっと室内を覗く。
男が五人。女が二人。
上座にふんぞり返る大男——その右耳は、確かに半分欠けていた。首元には、黄ばんだ猪の牙。
(見つけた。……標的)
「明日の朝にはここを出る」
頭領が酒をあおり、油ぎった口元を拭った。
「今度の荷は逃がすなよ。若いのは南へ、ガキは東へ売る」
「へい。副頭領が戻るまで待たなくて?」
「弟は術が使えるってだけで偉そうにしやがる。俺の命令が聞けねえなら、ずっと山で獣と喋ってりゃいい」
男たちの下卑た笑い声が弾けた。
シエンは静かに窓から離れる。
(殺すだけなら、ここから弓でも届く。……でも)
護衛がすぐに異変に気づくだろう。逃げ遅れれば、あの女たちが盾にされる可能性もある。
必要なのは、たった一撃。
誰にも見られることなく、その一撃を完璧に成立させること。
裏口の護衛が、顎が外れそうなほど大きなあくびをした。正面の二人はいつの間にか賭け事に夢中だ。室内では頭領が女の髪を乱暴につかみ、酒を注げと怒鳴っている。
シエンは、待った。
一息。二息。三息——。
荒々しく席を蹴って、頭領が立ち上がった。
「厩を見てくる。さっきから馬がうるせえ」
(……予定外、ね)
護衛が二人、慌てて腰を上げる。
「ついてくるな。酔いを醒ましてくるだけだ」
シエンの口元が、仮面の下でわずかに動いた。
好機が消えたのではない。
——形を変えただけだ。
シエンは建物の影を離れ、先回りするように厩へ向かう。
頭領がひとり、裏口からのっそりと出てきた。月を見上げ、酒臭い息をふうっと吐く。
「……誰だ?」
厩の闇に、ぼうっと浮かぶ白い髑髏。
頭領の顔色が変わり、腰の剣へ手が伸びる。
——遅い。
シエンはたった一歩で、間合いを消し去った。
右手が、腰の左に差された剣の柄頭を上から押さえ込む。これで剣は抜けない。同時に、左手の短刀が肋骨の隙間へ吸い込まれるように滑り——心臓まで、正確に届いた。
頭領の口が、声にならない形に開く。
その巨体を、シエンは厩の中へ引きずり込んだ。
馬の荒い鼻息が、男の最期の呼気を掻き消した。
頭領が確実に死んでいるのを確認し、刃を抜く。
依頼は、これで終わりだ。
今なら誰にも気づかれず、煙のように消えられる。
シエンは頭領の首から、依頼達成の証となる牙飾りを毟り取った。そのまま足音もなく、北の柵へ戻っていく。
その途中だった。
頑丈な鍵のかかった小屋の前を、通りかかったのは。
中から——押し殺した、小さな咳が聞こえた。
足が、止まる。
板の隙間を覗くと、暗闇の中に十人ほどの人影が身を寄せ合っていた。縄をかけられた男。汚れた服の女。母親の胸に顔を埋めて震える、小さな子供。
少し離れた倉庫には、村から奪ったのだろう穀物が山と積まれている。厩には馬。武器庫には剣と弓。
(頭領が死んでも……人と、物資はそっくり残る)
明日になれば、別の誰かが頭領を名乗るだけだ。そして略奪は続く。あの子供は、東へ売られていく。
シエンは北の柵へ目を向けた。
柵の外は暗く、どこまでも静かだった。
一歩踏み出せば、安全に帰れる。報酬も手に入る。それで終わり。
——小屋の中で、子供がまた、小さく咳をした。
シエンは、踵を返した。
依頼は『頭領を殺すこと』。
だからここから先は、一銭にもならない仕事だ。
「本当に……割に合わない」
ため息まじりの呟き。
それでも——短刀が鞘へ戻ることは、なかった。




