第二話 「ラゴウ」の欠片
見つけたのは、布を戻そうとしたときだった。
木箱の底板が、わずかに浮いている。
シエンは短刀の先を差し込み、板を外した。
下から——封泥のついた紙が、出てきた。
半分は焼け、残りも水を吸って波打っている。
「隠した?」
「火から守ろうとしたのかもしれない」
ユエンが、封泥へ顔を近づける。
九つの影。
——一つだけが、獣の爪のように太い。
現在の受取印と、同じ形だった。
「命令印……」
シエンは黒い符を横へ置く。
細部は違う。だが、九つの影と太い一本の位置は、一致している。
「十一年前から、同じ者がこの経路を使っていた」
「印が本物なら」
「またそれ?」
「封泥だけ、あとから押すこともできる」
「紙は?」
「古い」
「墨は?」
「同じだ」
「封泥は?」
「乾き方は不自然ではない」
「なら本物でしょう」
「偽造が巧い可能性は残る」
シエンは睨んだ。
「あなたは、何があれば信じるの」
「——別の種類の、証拠」
紙には、命令文が残っている。
『谷南東の集落より、女、子供、青縁布、祭具を回収。石門を経て北西へ送れ』
集落の名は、焼けている。命令を受けた者の名もない。
最後に——指揮者の名らしい、三文字。
最初は焼け、中央だけが残り、最後は墨が滲んでいる。
読めるのは、『ゴ』。その次は……『ウ』にも、見える。
「ラゴウ」
シエンが読む。
「そう読める」
「ラゴウよ」
「別の名かもしれない」
「副頭領が言った。ガンジも大男の噂を知っていた」
「二人とも、本人の立場を知らなかった」
「でも、同じ印がある」
「だから疑いは強くなった」
「まだ足りない?」
「——殺す相手を、決めるには」
その言葉で、シエンの指が止まった。
殺す。
あの夜から今日まで、九影を見つけたら全員殺すと思ってきた。
だが、いま目の前に——ひとりの、名前がある。
ラゴウ。
「証人を探す」
「当時の記録係なら、名前を見ているかもしれない」
「生きている?」
「錠が替えられていた。誰かが、この記録庫をまだ管理している」
ユエンは、戸の錠を拾った。
錆びていたのは、外側だけ。鍵穴には、新しい油が残っている。
「最初から気づいていたの?」
「中へ入ってからだ」
「なら、先に言って」
「君はもう開けていた」
管理者が、当時の記録係とは限らない。
——だが、追う価値はある。
記録庫の裏には、細い足跡が続いていた。
山を下り、古道脇の小屋へ向かっている。
小屋では、老人が縄を編んでいた。
痩せた指。落ちくぼんだ目。白い髪。
二人を見た瞬間、老人は右手を作業台の下へ隠した。
武器では、ない。
——小さな、鈴。
鳴らせば、外の誰かへ知らせる仕掛けだ。
「鳴らさないで」
シエンが、先に言う。
節くれだった指が、鈴の上で止まった。
「……何のことじゃ」
「石門関の記録庫を管理しているでしょう」
「知らん」
「鍵穴に、新しい油があった」
「旅人が使うとるんじゃろう」
「あなたの草履と同じ細い跡が、この戸口まで続いている」
老人は、黙った。
編みかけの縄が、膝の上で力なく垂れる。
「名前は?」
「……名乗るほどの者じゃないわ」
「——ヨウシン」
ユエンが、壁の木札を読んだ。縄の注文札に、名があったのだ。
「元・石門関記録係」
「……勝手に決めるな」
「石門関の通行記録を書いていたのは、あなたね」
「……あの年のことは、知らん」
——返事が、早すぎた。
「私は、いつの記録とも言っていない」
ヨウシンの顔から、血の気が引いていく。
唇が、声にならない形で二度ほど動いた。
「帰ってくれ。……頼むから」
「谷の南東から来た、二十七人を見た?」
「知らん」
「青い縁の布は?」
「知らん」
「——ラゴウ」
老人の瞬きが、止まった。
一瞬だけ。だが、見逃さない。
「知っているのね」
「知らんと言うとろうが!」
老いた手が、鈴をつかむ。
シエンは、短刀を抜かなかった。
「……鳴らしても、いい」
「な、なんじゃと?」
「私たちはあなたを殺さない。でも——その鈴の先にいる者が九影なら、私たちと話したことを、知る」
老人の手が、震える。
鈴を鳴らせば、助けが来るのではない。
——口封じが、来る。
「……脅すのか。年寄りを」
「事実を言っただけ」
「同じことじゃ!」
怒鳴った声は、恐怖で裏返っていた。
その勢いのまま、老人は続ける。
「べ、別の盗賊団じゃ。あの年に通ったのは、九影なんぞではない。名も知らん」
「では、印も知らない?」
「知らん」
ユエンが、紙片を四枚出した。
それぞれに、九つの影に似た印が描かれている。
一本が太い位置を変えたもの。影の数を八つにしたもの。爪を牙へ変えたもの。
そして——補助帳にある、本物の受取印。
「どれも同じに見えるか?」
「全部知らん」
ユエンは偽の印から順に、老人の前へ置いていく。
一枚目。——反応はない。
二枚目。——老人は苛立ったふりをした。
三枚目。——鈴を握る力が、少し緩む。
最後に、本物。
ヨウシンは、息を止めた。
視線が印から戸口へ走る。——逃げ道を、探した。
「これ『だけ』を、恐れた」
シエンが言う。
「知らない者は、偽物との違いも分からない」
「やめてくれ……」
「十一年前、誰がこの印を使った?」
ヨウシンは答えない。
「——私の姉が、連れ去られた」
平凡な女の顔で、言う。
美姫も、焼けた素顔も、その下に隠れている。
「村は焼かれた。私は、五歳だった」
老人が初めて、シエンを見た。
「……生き残りが、おったのか」
「あなたは、何を見たの?」
長い、長い沈黙のあと。
ヨウシンは、鈴から手を離した。
その手を、震えを抑えるように、もう一方の手で握り込む。
「——二十七人、じゃった」
声が、掠れている。
「女子供ばかりでのう。荷車には青い縁の布と、谷の祭りで使う木の鈴が積んであった。……あの鈴の音だけは、今でも耳に残っとる」
「どこの村?」
「名は記録から消された。じゃが、南東の谷じゃ。……その前の晩、山の向こうが赤う染まっとった」
(——故郷が、燃えた夜)
「指揮したのは?」
「大男じゃった。門をくぐるのに、頭を下げとったわ。……人とは思えん背丈での」
「名前」
「部下が……『巌熊のラゴウ』と、呼んどった」
心臓が、鳴る。
「九影の、何者?」
「九人の頭目の、ひとりじゃ。……そう呼ばれとった、というだけでな」
ヨウシンは、本物の印を指した。
「九つの影は、九人の頭目を示す——と、わしらは教えられた。命令を出した者の影だけが、太うなる。獣の爪を重ねるのは、巌熊の印じゃ」
「今も?」
「知らん。あれ以来、私は関を離れていない」
「女たちは、どこへ送られた?」
「北西じゃ。石門を抜けて、山の支道へ入っていった。その先は……書かせてもらえなんだ」
「——姉を、見た?」
老人は、しばらく目を閉じた。
まぶたの裏の何かを、探すように。
「……十六くらいの娘が、おった。黒髪でな。ひどく目立つ顔じゃった。あんな娘は、後にも先にも見たことがない」
(シヨウ——)
「生きて、いた?」
「わしが見たときは、な。……それきりじゃ」
……それだけ、だった。
現在の生死も、行き先も分からない。
それでも。あの日、姉は、確かにここにいた。
「どうして、記録を隠したの」
ヨウシンの手が、編みかけの縄をきつく握った。
「……あの晩、言われたんじゃ。『この日のことは、なかったことにしろ』とな」
「従ったのね」
「従った。翌朝には、その年の束を丸ごと引き渡した。……わしは、逆らわなんだ」
老人の喉が、ごくりと動く。
「じゃがな。あの男らは、受け取った束をその場で焼きよった。灰になるまで、わしは黙って見とった。……そのとき、思うたんじゃ」
節くれだった指が、震えていた。
「これで、あの二十七人は、はじめからおらんかったことになる、とな」
言葉が、風の音に紛れそうなほど細くなる。
「名も、日付も、どこへ運ばれたかも。誰ひとり覚えとらん。……わしが書いた紙きれが、あの子らがこの世におった、たったひとつの証じゃったのに」
「だから、隠したの」
「床が焼け残っとった。焦げた切れ端と、引き取り手のない荷を、そこへ押し込んだ。それだけじゃ」
老人は、初めてシエンの目を見た。
「役所へ届ける度胸も、逆らう度胸もなかった。……ただ、全部が無かったことになるのだけは、どうしても嫌でな」
「誰が怖かったの」
「ラゴウじゃ」
ヨウシンは、両手で顔を覆った。
「あの男はのう。命令に背いた者を、自分の手で潰しよった。刃を受けても血ひとつ流さん。片手で、人の頭を——」
言葉が、途切れる。
十年を越えてなお——恐怖は、老人の中で生き続けていた。
「今の支部を知っている?」
「知らん。じゃが……その印が今も使われとるなら、巌熊も、まだ生きとるということじゃ」
証言だけなら、老人の記憶違いかもしれない。恐怖に呑まれて、シエンの望む答えを作った可能性もある。
だが——ヨウシンは、偽の印には反応しなかった。
本物だけを、恐れた。
焼け残った紙と、現在の印が、ひとりの名で繋がった。
——ラゴウ。




