第一話 現在から過去へ
(十一年前——姉さんは、この道を通った)
そう思った瞬間、ユエンが紙片をひょいと取り上げた。
「まだ違う」
「返して」
ユエンは紙片を朝の光へ透かしたまま、返そうとしない。
「君はいま、数字を都合よく読んだ」
「十一と書いてある」
「『年』とは書いていない」
翌朝。
二人は水車小屋の床へ、枯柳倉で得た資料を広げていた。
盗賊団の帳面。枯柳倉の補助帳。荷札。骨札。黒い符。
そして——綴じ目から落ちた、あの古い紙片。
そこには九つの影と、『十一』という数字、北西へ伸びる古道の名が残っている。
「月の十一日かもしれない。荷の数かもしれない。綴じの通し番号かもしれない」
「十一年前かもしれない」
「その可能性も、ある」
「なら、調べる」
シエンは紙片を取り返した。
昨夜は、夜明けまで眠った。頭の揺れは少し軽い。吐き気もない。
だが脇腹と肩の傷は、身体をひねるだけでずきりと痛んだ。
ユエンは、それを見ている。
——何も言わないのが、かえって腹立たしい。
「古道を追う」
シエンが言うと、ユエンは静かに首を振った。
「道が同じだけでは証拠にならない」
「あの年にも、この道はあった」
「商人も、旅人も、盗賊も使った」
「九影も使ったかもしれない」
ユエンは答えず、手元の紙束を引き寄せた。
「だから——道ではなく、『印』を追う」
開かれたのは、現在の補助帳だった。
十二日ごとの取引。荷車の左軸に結ぶ赤い布。九つの影のうち、一つだけ太い受取印。
「同じ命令印が、同じ周期で古い記録に現れるなら、偶然では済まなくなる」
「古い記録は、どこにある?」
「北西古道に、石門関という関所があった。今は西津県衙の出先が置かれている」
「『あった』?」
「関所は二十年ほど前の山崩れで閉じた。だが、旧い記録は出先が管理している」
「どうして知っているの」
「古い地図に載っている」
「その地図は?」
ユエンが外套の内側から、折り畳んだ紙を出す。
「……いつから持っていたの」
「昨日から」
「先に出して」
「君が寝たあとに見つけた」
「私の帳面には触っていないでしょうね」
「地図は私のものだ」
「答えになっていない」
「触っていない」
紙面には、西津渡しから北西へ向かう古道が描かれている。
——枯柳倉の補助帳に残る線と、重なった。
道の先には石門関。さらに山へ入れば、いくつもの支道へ分かれていく。
「支部へ直接続く道ではない」
「また可能性?」
「今度は——可能性を、減らしに行く」
シエンは資料を包んだ。
「出る」
腰を上げたシエンを、ユエンは座ったまま見上げた。
「歩いて?」
「ほかに何があるの」
「荷車を雇う」
「目立つ」
「——君が道端で倒れるよりは、目立たない」
結局、二人は一銭を払い、石門関の手前まで行く荷車へ乗った。
荷台は干し草の匂いがした。——歩くよりは、ずっとましだった。
「これは『休んでいる』ことになる?」
「黙って目を閉じれば」
「寝ない」
「では、印を見ていろ」
ユエンが、古い紙片を返す。
九つの影。十一。北西の古道。
まだ、何も確定していない。
だが——故郷が焼けた夜から数えて、初めて。
『過去へ続く道』が、目の前にあった。
北西古道は、荷車でも一日では抜けられなかった。
その日は荷台で揺られ、夜は街道宿の納屋を借りた。翌日も昼を過ぎるまで山道を進み、最後の坂だけは自分の足で歩いた。
翌日の、昼過ぎ。
石門関は、関所としては、とうに死んでいた。
二本の石柱だけが残り、門扉はない。崩れた塀の向こうには、屋根の半分を失った建物が三つ並んでいる。
かつての詰所。荷の検め場。記録庫。
塀の外には、瓦屋根の小さな役所が継ぎ足されていた。西津県衙の出先だ。
詰めている街道見張りは、二人だけ。古い通行記録を見たいと告げると、若い役人は面倒くさそうに、崩れかけた記録庫を指した。
「残っているなら、あそこだ。鍵はとうに失くした。崩れても責任は持てんぞ」
廃れた関内に、人の気配はなかった。
「——鍵が、ある」
記録庫の戸には、錆びた錠が下がっていた。
ユエンが、その錠を指先で持ち上げる。
「管理されている」
「開ける」
シエンは髪から細い針金を抜いた。
「鍵は?」
「必要ない」
錠の中を探り、二度ひねる。小さな音がして、開いた。
「暗殺者は便利だな」
「物みたいに言わないで」
「前にも言われた気がする」
「学んで」
庫内には、湿った紙と黴の臭いが満ちていた。
棚の半分は倒れ、床には鼠にかじられた記録が散らばっている。奥の壁には、黒い焼け跡。——火事があったらしい。
ユエンが、崩れた棚を見回した。
「あの年の記録を、全部読むつもりか」
「そのつもり」
「言っておくが、全部は残っていない」
「それなら早いわね」
「……必要な頁だけが失われている、という意味だ」
シエンは返事をせず、棚の年札を追った。
八年前。十年前。十二年前。
——十一年前の札だけが、ない。
「抜かれている」
「火事で焼けた可能性もある」
「前後の束は残っている」
棚板の埃には、四角い跡があった。
記録の束を、一つだけ持ち出した跡。
「誰かが、消した」
「そう見せた可能性もある」
「あなたは全部疑うのね」
「君が全部信じようとするからだ」
二人は、別々に探した。
シエンは床へ落ちた頁を日付順に並べる。ユエンは紙の質、墨、封泥の欠片を分けていく。
時だけが、過ぎていく。
見つかるのは、塩、麦、油、布、陶器。——どれも、古道を通ったごく普通の荷だ。
「これ」
シエンが、焦げた頁を拾い上げた。
端しか残っていない。だが、日付は——探していた年のものだった。
荷の欄に——人を示す、三本線がある。
人数は、二十七。
出発地は焼け落ちて読めない。到着地も欠けている。
「人を運んだ記録だけでは、故郷とは結べない」
「周期は?」
シエンが指した欄を、ユエンが覗き込む。
——十二日。
現在の仲介帳と、同じだった。
シエンは次の破片を探す。
荷の検め場に、床下収納があった。蓋は焼け、上に棚が倒れている。
ユエンが、その棚を一人で持ち上げた。
「その力、本当に人間ではないでしょう」
「今は棚の話をしよう」
「逃げた」
床下から、小さな木箱が出てきた。
中には、引き取り手のなかった押収品が残っている。
欠けた椀。錆びた小刀。焦げた布。
——その中に。
青い縁取りの、麻布があった。
シエンの指が、止まる。
「触らないで」
ユエンの手を払った。
布の縁には、糸が二度戻る独特の縫い目がある。
一針進み、半針戻る。最後に糸を小さく交差させる。
——返り燕縫い。
故郷の女たちが、ほつれにくいようにと、布の端へ使っていた縫い方だ。
「知っているのか?」
「……姉に、教わった」
◇◇
『違う。そこは、もう一度戻すの』
シヨウの指が、五歳のシエンの小さな手へ重なる。
春の光が、縁側へ柔らかく差していた。姉の黒髪には、青い燕をかたどった髪飾りが揺れている。
『どうして戻るの?』
『強くなるからよ。前に進むだけじゃ、糸はすぐ抜けてしまうでしょう』
『燕なのに、戻るの?』
『燕だから、戻るの。——帰る場所を、忘れないように』
◇◇
帰る場所は、もう、ない。
シエンは布を握りしめた。
「……これだけでは、証拠にならない」
自分で、言った。
ユエンが、黙っている。
「同じ縫い方を、別の土地でも使っているかもしれない。誰かがあとから箱へ入れた可能性もある」
「ああ」
「でも、調べる価値はある」
「——ある」
ユエンは、否定しなかった。
焦げた頁と、青縁の布。十二日の周期。
故郷から運ばれた品と人が、この関を通った可能性が生まれた。
……まだ、可能性だ。




