第六話 割れれば戻らない
床へ降りた瞬間、膝が崩れた。
頭の奥で白い光が弾け、吐き気がせり上がる。
(……休息を取った程度じゃ、傷は消えない)
帳場の男が嗤った。
「偽物が。——顔を、剥いでやる!」
曲刀が、横薙ぎに来る。
避けられる。
だが、右へ避ければ地下への入口から離れる。左へ避ければ、脇腹の傷がさらに開く。
シエンは、半歩だけ退いた。
刃が、バンロの頬をかすめる。
——乾いた音がした。
皮膚では、ない。
仮面の表面に、白い傷が走っていた。
「な、何だ、その顔……」
男が目を見開く。
(もう一撃受ければ——割れる)
割れた仮面は、戻らない。バンロの顔を失えば、この仲介網へは二度と入れない。
……でも、守れば、自分が斬られる。
シエンは仮面へ指をかけた。
「守らない」
「何?」
「顔より——私が、先」
外そうとした瞬間、曲刀がもう一度迫る。
(間に、合わない——!)
背後で、槍の柄が石床を打つ音がした。
ユエンは足元の槍を拾い、穂先を床板の裏へ差し込み、棒にして板を受け止めさせた。
床板から肩を抜き、倉の中央を横切り、外套でシエンを覆い隠す。
ユエンが割り込み、刃を腕で受け止めたのだ。老人の袖が裂け、血が飛んだ。
「あなた——」
「今だ」
男たちの視界から、シエンの顔が消える。
シエンはバンロの仮面を外した。
身体が縮み、重心が変わる。表に出たのは、平凡な女の顔。美姫は、その下に隠れたままだ。
外した仮面をユエンへ投げる。ユエンは無事なほうの手で受け止め、外套の内側へしまった。
「お、女が現れたぞ!」
「違う、男が女に——」
混乱は、一息あれば充分だった。
ユエンはシエンが構え直したのを確かめると、床板のもとへ引き返した。
槍の石突きが滑り、床板が落ちる。その寸前、ユエンが傷のない腕と肩で受け止めた。
シエンは低く沈む。
さっきまでの『男の身長』を狙った曲刀が、頭上を空しく通り過ぎた。
懐へ入る。手首を返し、帳場の男の腱を切る。
曲刀が落ちた。
肘を喉へ打ち込み、机へ叩きつける。
男が動かなくなった。——殺してはいない。訊くことが、残っている。
壁際に残った男たちが迫る。
シエンは正面から受けない。荷箱の間へ入り、狭い通路へ誘い込む。
先頭の剣を、荷箱へ食い込ませる。抜こうと踏ん張った腕へ、短刀の柄を打った。
その背後から、別の男が来る。
「右だ」
——ユエンの声。
考えるより先に、左へ沈んだ。
右から来た棒が、空を切る。
シエンは足を払い、男を倒した。
(……初めて、あの男の声だけで動いた)
信用したわけではない。
見えているものを——今だけ、預けた。
戸口の男が逃げる。
ユエンは床板を片手で支えたまま、足元の荷物を蹴った。それが男の膝裏へ当たり、男は戸口の外へ転がる。
「手を貸してくれ」
「あなたなら一人で持てるでしょう」
「持てることと、持っていていいことは別だ」
「……真似しないで」
シエンは息を整え、床板の下へ声をかけた。
「動ける人は、子供を連れて上がってきて!」
最初に、若い女が顔を出す。
目には恐怖が残っていたが、その腕はしっかりと少女を抱えていた。
捕らわれていた者たちが、全員外へ出る。
最後の少年が上がると、ユエンは床板を横へ放り投げた。重い板が、壁へめり込む。
倉に、静けさが戻った。
倒れた者たちの呻き声だけが、残っている。
「腕を見せて」
シエンはユエンの袖をつかんだ。
曲刀を受けた場所から、血が流れている。
「浅い」
「私が決める」
袖を裂く。
傷は、確かに浅かった。
——だが、人間なら骨まで届いていてもおかしくない一撃だった。
「どうして割って入ったの」
「君が顔を替える時間が必要だった」
「そうではなくて。どうして刃の前に出たの」
ユエンは、少し考えた。
「契約相手と手掛かりを、同時に失いたくなかった」
「それだけ?」
「ほかに何が要る?」
——善人ではない。
そう言い張る顔だった。
シエンは布を傷へ巻いた。
「きつい」
「逃げないように」
今度は、ユエンが黙る番だった。
ユエンは外套の内側から、バンロの仮面を取り出す。
左頬に、細い傷。光へ透かすと、裏側までは届いていない。
「まだ使える」
「次は割れるかもしれない」
「同じ仲介網では、もう使えない」
帳場の帳面には、バンロを疑う印が残っている。
——顔が無事でも、『身分』は死んだのだ。
「それでも、返して」
「借りた顔だから?」
「借りたまま、捨てたくない」
ユエンは何も言わず、仮面を渡した。
シエンは傷の入った死者の顔を、丁寧に布で包んだ。




