第四話 顔を知る者
その日の、日暮れ。
西津渡しは、市を畳む声で満ちていた。
川幅は広く、向こう岸が夕霧に霞んでいる。大小の舟が岸へ並び、荷車と人が板橋を行き交う。
市場から南へ離れるほど、人の声は減っていった。
使われなくなった倉が並び、その一番奥に——枯柳倉がある。
屋根は傾き、壁板は黒ずんでいた。だが、地面に残る車輪の跡は新しい。
戸の前に男が二人。川側の葦に一人。さらに、屋根の明かり取りの奥にも人影がある。
(見えるだけで、四人)
ユエンは倉から離れた船着き場にいる。顔は昨日とは別の、背の曲がった老人だ。シエンが合図をすれば、古い形式で取引開始を知らせる役。
骨札の傷から候補は一つに絞ったが、それが正解だという確証はない。
(失敗したら……バンロの顔だけで、切り抜ける)
シエンは、枯柳倉へ歩いた。
「止まれ」
戸口の男が槍を向ける。
その視線が、左耳へ動いた。
「……バンロ?」
シエンは答えず、木札を見せる。
「遅かったな。朝から姿が見えねえから、逃げたかと思ったぞ」
「毒を盛られた」
バンロの声で、短く答える。
男たちの目の色が変わった。
「誰に?」
「知らねえ」
「よく生きてたな」
「吐いた」
——必要なことだけ。
傷を庇う歩き方も、今は都合がよかった。
戸口の男が近づき、耳へ触れようとする。
シエンは、その手を払った。
「触るな」
自分なら決して言わない乱暴な口調が、自然に出た。
男が鼻で笑う。
「……いつものバンロだ」
最初の検問は、通った。
倉の中には、荷箱が十二。酒樽が六。壁際に男が五人。奥に、帳場らしい机がある。
人を運ぶ檻は見えない。
——だが床には、細い鎖を引きずった傷が残っていた。
「座れ」
帳場の男が言う。
四十前後。太い首。右頬に、古い刃傷。
(この場の、まとめ役か)
シエンは向かいへ腰を下ろす。
「帳面は?」
「盗まれた」
「知ってる。髑髏の女にだ」
——やはり、情報が回っている。
「兄弟も死んだ。お前まで毒を食らった。……それで?」
「次の場所を聞きに来た」
「順番が違うだろ」
男が、机へ指を二度打ちつけた。
「先に、言うことがあるよなあ?」
(——合言葉)
シエンは、黙った。
「どうした、バンロ」
「頭が回らねえ」
「じゃあ、簡単なのにしてやるよ」
男が、身を乗り出す。
「三年前、俺とお前が初めて荷を沈めたのは——上流か、下流か?」
(分からない……!)
バンロの顔は、何も教えてくれない。
二つに一つ。当てずっぽうで選ぶことはできる。だが、続く質問には答えられない。知らないふりを重ねれば、矛盾が増えるだけだ。
シエンは机の下で、指を二度曲げた。
外のユエンへ送る合図。——見えている保証は、ない。
「忘れたのか?」
男の手が、腰の刀へ近づいていく。
「忘れるかよ」
シエンは低く答えた。
上流とも、下流とも、言わない。
「だったら答えろ」
「先に取引だ」
「……逃げるな」
殺気が、濃くなる。
——そのとき。
外で、板木が鳴った。
一度。
間を置いて、二度。
さらに、長く一度。
倉の男たちが、一斉に顔を上げる。
「支部の合図だ」
帳場の男が立ち上がった。
「やけに早ぇな」
(ユエンにも、あの打音が正解だという確証はなかったはず……)
帳面の周期と骨札の傷から、順番を組み立てただけ。
——正解、だったらしい。
「話はあとだ。荷を出せ!」
私的な尋問より、目前の取引が優先された。
ただし男は、机の端に小さな印を押した。
三本枝の柳。その横に、斜めの傷。
(——疑いの、印)
顔だけでは、完全には通れなかった。
それでも、扉は開いた。
倉の床板が、持ち上げられる。
地下から——押し殺した、泣き声が聞こえた。




