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第三話 新しい死者の顔

 最初に見つけたのは、片方だけの草履だった。

 葦《あし》の根元に引っかかり、泥をかぶっている。

 次に——引きずった跡。

 渡し場へ向かう道から外れ、川沿いの葦原へと続いていた。


「荷を捨てた跡ではない」


 シエンはしゃがみ、泥へ指先を触れた。

 太い引きずり跡の両脇に、別々の靴跡が続いている。


(荷じゃない。人間を引きずったあとのようだ)


「夜のうちね」

「どうして分かる?」

「朝露が跡の上に降りている。それに、縁がまだ崩れていない」

「便利だな」

「何が?」

「君が」

「物みたいに言わないで」


 葦を分けるたび、葉にたまった露が外套を濡らした。

 奥へ進むほど、熟れすぎた果実のような甘い臭いが強くなる。

 ——花では、ない。

 シエンは呼吸を浅くし、短刀へ手をかけた。

 葦が人の形に押し倒され、その中に男が仰向けで倒れていた。

 小柄で痩せている。黄みがかった肌。短い黒髪。左耳の上が欠けていた。

 外傷はない。唇の端に、乾いた泡が残っている。


「毒?」


 隣にしゃがんだユエンが、男の顎へ手を伸ばした。


「おそらくね」

「触らないで」

「もう死んでいる」

「毒が残っているかもしれないわ」

「心配してくれるのか?」

「契約相手を初日で死なせないためよ」


 ユエンが、わずかに笑った。

 男の懐には、銭が残っていた。——物盗りではない。

 腰帯の裏から、薄い木札が出てくる。

 表に、三本枝の柳。裏には——『バンロ』という名。


 木札を覗き込んだユエンが、欠けた耳と見比べる。


「枯柳倉の、仲介人……か?」

「私たちが探していた顔ね」


 口にした瞬間、嫌なものが胸へ沈んだ。

 探していた。……だが、死ねと願っていたわけではない。


 シエンは木札を握ったまま、男の顔へ視線を戻した。


「殺された理由は?」


 ユエンは答える代わりに、男の袖口を持ち上げた。黒い粉がこびりついている。

 副頭領から奪った符の灰に似ていた。


「確認印を消そうとした?」

「逆だ」


 ユエンが粉を指先でなぞり、擦り合わせる。


「符の灰じゃない。ただの炭に、鉄の粉を混ぜてある。袖へ『つけられた』んだ。処分したと知らせる印だろう」

「今夜の取引前に、仲介人を殺した……」

「帳面を失った盗賊団との繋がりを、切るためかもしれない」

「九影《ジュイン》が?」


 ユエンは粉のついた指を拭いながら、首を横に振った。


「まだ決めるな。仲介網の誰かかもしれない」


 シエンは男の左耳を見る。

 欠けた形まで、木札の裏へ小さく描き込まれていた。——顔を使った、身元確認。


「この男なら、中へ入れる」

「入れるのは、顔だけだ」

「声も変わるのでしょう」

「体格も、口調も、気配も」

「記憶は?」


 ユエンは答える前に、一度だけ死体を見た。


「——得られない」

「何も?」

「名前も、過去も、合言葉も。……死者の顔は、答えない」


 完璧な変装では、ない。

 これは、入口を開ける鍵。その先は、自分で歩くしかない。


「仮面を作って」

「いいのか?」

「この男を殺した相手を見つける。顔は、そのために借りる」


 ユエンは、動かない男へ目を落とした。


「死者から許しはもらえない」

「だから、終わったら返す」

「顔は戻せない」


 シエンは、黙った。

 風に揺れた葦が、乾いた音を立てる。

 男の欠けた耳も、閉じた瞼も、まだそこにあった。


「……埋める」

「それで許されるとは限らない」

「許されるために、やるんじゃない」


 姉を探すためだ。次の犠牲を止めるためだ。


(自分の手が綺麗だなんて……思ったことは、一度もない)


「やって」


 ユエンは、それ以上問わなかった。

 男の顔へ、片手を置く。

 朝なのに——指の間から、月夜のような青白い光がこぼれた。

 皮膚を切る音はしない。血も流れない。

 ただ、男の顔から、薄い『何か』が剥がれていく。

 閉じた瞼。鼻。唇。欠けた耳の形。

 それらが一枚の面となって、ユエンの手へ収まった。

 ——死体には、顔がなかった。

 傷口さえない。そこに最初から何もなかったかのような、滑らかな空白だけが残っている。


 シエンは、目を逸らさなかった。

 ユエンの顔にも目を向ける。

 いつもの、人を試すような薄い笑みは消えていた。


「これが、あなたの仕事?」

「そうだ」

「……今は、嗤わないのね」

「面屋は、死者を嗤わない」


 ユエンは、できたばかりの仮面を差し出した。

 まだ、人肌の温度がある。


「かぶれば、バンロになる」

「面は人を選ぶんじゃなかったの?」

「人物面は、かぶる者を選ばない」

「美姫は選んだ」

「——だから、あれは異常なんだ」


 シエンは今の顔に触れた。その下に、美姫の仮面がある。


(これで私も三枚目。ユエンのことを言えないわね)


 平凡な女の仮面の上から、バンロの顔を重ねた。

 視界が、一瞬だけ暗くなる。

 骨が軋んだ。

 背が伸びる。肩幅が変わり、胸元の重みが消え、手の甲に薄い血管が浮く。外套の袖が、少し短くなった。


「どうだ?」

「……気持ちが悪い」


 出たのは、低い男の声だった。

 語尾も、自分のものより荒い。

 だが——バンロが誰を好きだったかも、誰を恐れていたかも、分からない。

 頭の中は、シエンのままだ。

 脇腹と肩の傷も消えていない。体格が変わったせいで布が引かれ、むしろ痛みは強くなった。


「顔が変わっても、傷はそのまま」

「仮面は薬ではない」

「記憶もない」

「そう言った」


 シエンは死体の木札を握る。


「なら——『知らないふり』を、しない」

「どうする?」

「毒を盛られて、頭が回らないことにする。声を出すほど疑われるなら、出さない」

「本人の口調は面が補う。だが、知識までは補わない」

「質問を、させなければいい」


 シエンはバンロの顔で、顔のないバンロを見下ろした。


「——先に、埋める」


 二人は葦原の奥へ、穴を掘った。

 ユエンなら、一人で早く掘れたはずだ。

 それでもシエンは、片手で土をかけ続けた。

 ——借りた顔の重さを、忘れないために。


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