第二話 最初の共同方針
第六日目の朝。
シエンは、ユエンが帳面へ一度も触れずに待っていたことを確認した。
「本当に触らなかったのね」
「残念そうだな」
「疑う理由が一つ減っただけ」
「喜ばしい進歩だ」
西へ向かう道は、平坦だった。
麦畑の間を街道が伸び、その先で大きな川へぶつかる。
急げば今日中に渡し場へ着く。——だが、シエンの歩幅は普段の半分だった。
朝のうちは頭痛が軽かった。昼前には脇腹が熱を持ち、肩の傷が外套と擦れるたびに痛んだ。
ユエンは何も言わない。ただ、街道脇に茶屋が見えるたびに足を止めた。
「休まないわ」
「水を買うだけだ」
「三度目よ」
「私は喉が渇きやすい」
「——人でなくても?」
ユエンの足が、止まる。
シエンも止まった。
「あなたがただの人間でないことは、もう隠せていない」
「契約では、話せないこともあると伝えた」
「否定は、しないのね」
「……茶が冷める」
逃げた。
(でも、今は追及しない)
茶屋の壁には、西津渡しの市日が書かれていた。
六日に一度。——次は、明日だ。
シエンは帳面の欠け月の印と、日を数えた。
「一致する」
「まだ一つだ」
「市の日に人を運べば、旅人に紛れられる」
「ほかの川港にも市はある」
「距離は?」
茶屋の老爺に、三つの場所までの道のりを訊く。
北の船着き場までは一日。だが、細い山道しかない。南西の川港までは三日。西津渡しなら——今の足でも、明日の昼前には着く。
帳面にある取引間隔と、砦から人を歩かせられる距離。
合うのは、一つだけだった。
「西津渡し」
今度は、ユエンも否定しなかった。
◇◇
その日も、二人は日が沈む前に足を止めた。
渡し場はもう遠くない。西の空の下に、川霧がうっすらと見える。
シエンは街道脇の草を払い、帳面の写しと茶屋でもらった地図を並べた。赤みを帯びた西日が、紙の上を斜めに照らす。
シエンは地図に描かれた市場を、短刀の鞘で示した。
「市場は人が多すぎる。あそこで人を渡せば目につく」
向かいにしゃがんだユエンが、帳面の写しへ視線を落とす。
「人の多さは隠れ蓑にもなる。取引には向いているよ」
「少人数ならね。今回は違う」
「では、隊商宿はどうだ? 荷車の出入りも珍しくない」
シエンは鞘先を市場から隊商宿へ動かしたが、すぐに帳面へ戻した。
「隠すには向いてる。でも、帳面の印と合わない」
鞘先で、頁の隅を軽く叩く。そこには、枝が三本だけ残った木の印がある。
ユエンは「古い商人の印だ」と言った。
——シエンには、別のものに見えた。
「柳」
「木の種類まで分かるのか?」
「違う。枝が垂れている。これを横にすれば、古い倉の荷印になる」
茶屋でもらった粗い地図には、渡し場の南側、歩いてそう遠くない場所に、使われなくなった荷倉が記されていた。
——枯柳倉。
昔、入口に大きな柳があったことから、そう呼ばれているらしい。
「市から離れすぎず、荷車も入る。川へも出られる」
「人を運ぶには、都合がいい」
言葉にすると、胸の奥が冷えた。
帳面には、次の取引を示す印もある。
——明日の、日暮れ。
「正面から入る」
シエンが言う。
「誰として?」
「帳面を持つ者として」
「殺される」
「なら先に殺す」
「場所も人数も、支部への合図も分からない」
「待てば取引が終わる」
「取引前に、中へ入る方法が要る」
ユエンが、骨札を持ち上げた。
「古い形式では、仲介人が骨札を見せ、外の者が決まった時刻に合図を返す」
「合図は?」
「確証はないが、骨札の傷を打音として読むなら——一度、二度、長く一度になるかな」
「仮説?」
「候補の一つだ」
「役に立たない知識ね」
「君の正面突破よりは長生きできる」
互いに、睨み合う。
先に視線を外したのは、シエンだった。
「……顔が、必要だな」
「誰の?」
「あの倉へ出入りできる人間の」
「その顔を、どうやって奪うの?」
ユエンは骨札を指先で弄び、すぐには答えなかった。
「時が来れば分かる」
「はぐらかさないで」
「分かっている」
シエンは短刀の柄から、手を離さない。
「生きている人間を犠牲にするつもりなら、私は協力しない」
「覚えておくよ」
最初の共同方針は、それだけだった。
潜入する。顔を得られなければ、別の手を探す。
——だが、翌朝。
二人は渡し場へ着く前に、探していた『顔』を見つけてしまった。




